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ARCHIVES『THE NIKKEI MAGAZINE Ai』プレミアムクラブ会員向けメールマガジンその12「家(3)」(2015年11月~2023年3月配信/文:Katsuma Kineya、編集:講談社、配信元:日本経済新聞社)

中村勘三郎家の見どころと見せどころ

2018年3月30日

 名跡、中村勘三郎は、平成二十四年、十八世が没して以来空席。現在、中村勘三郎家を支えるのは、中村勘九郎と中村七之助です。芸だけでなく、十八世の音頭で始まった赤坂大歌舞伎やコクーン歌舞伎、平成中村座も受け継ぎ、精進を重ねています。ところで、平成中村座は、十八世の心中にあった「中村勘三郎という本来座主の名跡として伝えられてきた名前を継ぐからには、という思い*」が働いて作られたともいいます。さて、どういうことなのでしょうか。

中村座を創始した初世から十六世まで

 初世が生まれたのは一五九八(慶長三)年。諸説ありますが、武士の子として生まれたようです。家記とされる『江戸三芝居由緒書』には、一六二四(寛永元)年、江戸中橋(現在の日本橋あたり)に猿若座を作り、後に堺町(現在の人形町)に移転、名を中村勘三郎に、座名も中村座に改めたとあります。中村勘三郎は、役者であるだけでなく、座元座主、つまり劇場主であり興行主でもあったのです。だから十八世は冒頭のような思いを抱いたのでしょう。初世は一六五八(明暦四)年に他界。二世は初世の次男、勘助。中村座に改名したのはこの人とも。中村座は堺町で一八四一(天保十二)年まで興行を続けます。
 ちなみに、江戸で芝居興行が認められたのは、中村座、市村座、森田座(後に守田座)、山村座の四つのみ。山村座は絵島生島事件がもとで廃座となったため、以降、本櫓(ほんやぐら)は「江戸三座」となり、この体制が明治維新まで続きます。それぞれ中村勘三郎、市村羽左衛門、守田勘彌が世襲で継承。財政難に陥ると、控櫓の都、桐、河原崎の各家に興行権が移りました。
 中村勘三郎家の話に戻りましょう。三世は初世の三男。四世は初世の長男の養子で、七年で座元を譲り、自身は役者に専念。初世伝九郎を名乗り、元禄期を代表する立役として歴史に名を残します。以降、五世から十二世までは、一時控櫓の都座に興行を譲ったり、火事、移転などもあったものの、途切れることなく名跡も座元も継承されます。しかし、十三世は幕末から経営不振に苦しみ、ついに一八七五(明治八)年、三世中村仲蔵に譲ります。これをもって、中村勘三郎の名跡は断絶。ただし座元を継承した三世中村仲蔵、五世中村明石、五世明石の子勝子をそれぞれ十四世、十五世、十六世に数えます。中村座は一八八四(明治十七)年猿若座と改称し、一八九三(明治二十六)年焼失後は再建されていません。

七十五年ぶりに名跡を継いだ十七世と天才肌の十八世

 役者であり座元でもあった中村勘三郎の名跡を預かっていたのは、松竹創業者の大谷竹次郎。一九五〇(昭和二五)年、三世中村歌六の三男に継がせます。こうして誕生した十七世は、一九〇九(明治四十二)年生まれ、前名は中村米吉、四世中村もしほ。襲名時の本名は中村姓ではなく、歌六家の本名である波野姓のままでした。中村勘三郎という名跡は、空席になってすでに半世紀以上。十七世は、先代が不在、先祖代々の芸もない中村勘三郎という名跡の、いわば新たな初世のようなもので、兄・初世吉右衛門と義父・六世尾上菊五郎の芸を引き継ぎ独自の芸を磨き上げ、その名に恥じない功績を残しました。
 十八世は一九五五(昭和三十)年生まれ。前名中村勘九郎、襲名は二〇〇五(平成十七)年。父を三十三歳でなくしたものの、持ち前の進取の気質で道を切り拓き、新たな中村勘三郎家の芸をより深め、幅を広げることに貢献。天衣無縫な天才肌の役者として活躍したことは、ご存じの通りです。そして、それまで歌舞伎興行のなかった八月に「十世三津五郎(当時八十助)と共に」(2023年8月7日加筆)納涼歌舞伎を打ったり、冒頭にもご紹介した興行を始めたりと、チャレンジを続けました。
 中村勘九郎から中村勘三郎へという新たな道筋ができあがった今、中村勘三郎家がどのように発展していくのか。これからますます目が離せませんね。

(参考資料:『平成中村座筋書き』*『【岩波講座】歌舞伎・文楽 第2および第3巻 歌舞伎の歴史Ⅰ・Ⅱ』岩波書店、『歌舞伎 家と血と藝』講談社、『新版 歌舞伎事典』平凡社、『かぶき手帖2017年版』日本俳優協会・松竹・伝統歌舞伎保存会、『歌舞伎ハンドブック第3版』三省堂)

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片岡仁左衛門家の見どころと見せどころ(一)

2018年2月2日配信

 今回から二回に分けて、上方の名家、片岡仁左衛門家をご紹介します。

元禄時代に活躍した初世から家を再興した七世まで

 一六五六(明暦二)年生まれの初世は、はじめ藤川伊三郎という名で三味線を弾いていたようです。元禄時代初期には京都に上っており、大西森右衛門の名を経て、片岡仁左衛門となります。一六九六(元禄九)年から一七〇九(宝永九)年までは大坂で活躍。座本も長く勤めました。ちなみに上方の興行制度は江戸と異なります。劇場主と興行権利者(名義者)が別々で、それぞれ「芝居主」と「名代(なだい)」と呼ばれました。興行責任者「座本(ざもと)」は、芝居主と名代から劇場と興行権を借り、芝居を上演しました。初世は荒事がかったすさまじい悪を表現し“敵役の随一”と称されましたが、一六九七(元禄十)年ごろから、ごく普通の男性が苦悩するさまを描く芸(実事)も演じるようになります。そして実と悪との移りを眼目とした実悪の演技を上方で創始*。実悪は立敵ともいわれる重要な役です。初世はまた、世話事、男伊達事、うれい事なども得意としました。一七〇九(宝永六)年に再び京へ上り、翌年立役に転向しています。
 二世は生没年不詳。一七一七(享保二)年に襲名しますが、早逝したようです。その後初世の妹婿藤川繁右衛門が名義を預かったため、これを三世と数えています。四世も生没年不詳。三世の子とも養子とも。当初は若女形を勤めていましたが、一七一三(正徳三)年大坂に出勤後、敵役に転じ、嵐三五郎と組んで大当たりをとっています。襲名は一七四七(延享四)年。五世も生没年不詳で、四世の養子となり、名跡を預かったまま一七七〇年代に表舞台から姿を消します。ここで家系は途絶えますが、初世の門流、美保木儀左衛門の縁で二世儀左衛門が名跡を預かったため、これを六世に数えます。
 一七五五(宝暦五)年生まれの七世が片岡の名跡を再興して仁左衛門を襲名したのは、一七八七(天明七)年。ぽっちゃり型でしたが、すぐれた風采、容貌で、口跡もよく、女形から実悪まで芸域が広かったそう。京、大坂、後には江戸でも人気を博した役者。一八三七(天保八)年没で、八十三歳の長寿を全うしています。兄と共に幼いころから舞台に立ち、亡くなる直前まで舞台で演じていたという役者人生でした。

八世が活躍した幕末から、十世が没する明治中期まで

 八世は一八一〇(文化七)年生まれ。二世嵐璃寛の門弟で、一八三三(天保四)年に七世の養子となり、片岡我當を名乗ります。五年後養父が他界すると、その俳名だった我童を芸名に。三世中村芝翫、初世実川延三郎と共に立役の花形となり、一八五四(安政一)年江戸にくだります。襲名は三年後の正月、江戸中村座でした。帰坂したのは一八六二(文久二)年十月のことで、翌年病没。五十四歳でした。七世と異なり小柄でしたが、やはり容姿にすぐれた役者として人気を集めます。和事を得意としたものの、晩年には敵役、女形なども務めています。
 初代中村歌六の三女を妻とした八世には、養子も含め成人した男子が三人いました。家督は年長の養子が継ぎ、我當を名乗ります。しかし一八七一(明治四)年、三十三歳で早逝。いずれは九代目になるはずだったからと、臨終のときに親族だけで襲名をさせます。しかし当然襲名披露はできず、衆人の知るところとはなりませんでした。十代目を継いだのは一八五一(嘉永四)年生まれの実子。本名土之助で初舞台を踏み、一八六七(慶應三)年、片岡若松を名乗り、一八七二(明治五)年、三代目我童を襲名。八世の芸風を受け継ぎ、東京と関西の双方で立役、敵役、女形として活躍し、一八九五(明治二十八)年、十代目仁左衛門を襲名します。ところが、その襲名披露興行に、長老市川右團次と、実弟片岡我當が出演できなくなります。当時は興行師の締めつけが厳しく、他座への出演が許されなかったためです。これをきっかけに十世は精神を病み、いっとき持ち直すものの、結局、披露興行を行うことなく、同年四月十五日に他界します。
 
 次回は、十一世から当代までをご紹介します。

(参考資料:*『【岩波講座】歌舞伎・文楽 第2および第3巻 歌舞伎の歴史Ⅰ・Ⅱ』岩波書店、『歌舞伎 家と血と藝』講談社、『新版 歌舞伎事典』平凡社、『かぶき手帖2017年版』日本俳優協会・松竹・伝統歌舞伎保存会、『歌舞伎ハンドブック第3版』三省堂)

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片岡仁左衛門家の見どころと見せどころ(二)

2018年3月2日配信

 一月二月の歌舞伎座は、松本白鸚、松本幸四郎、市川染五郎襲名披露で大賑わい。チケットが入手困難なほどで、とくに二月奇数日の夜の部が品薄状況に。襲名披露に加え、それを寿ぐスター勢揃いの配役、なかでも『仮名手本忠臣蔵』七段目お軽と平右衛門の影響でしょうか? なんといっても奇数日はお軽が玉三郎、平右衛門が仁左衛門という往年の名コンビですから。当代の十五代目仁左衛門は、整った細面、すらりと美しい立ち姿、耳に残る口跡と三拍子揃った名優。襲名は一九九八(平成十)年のことで、齢五十三歳でした。五十年近くもの間、本名の片岡孝夫で舞台に立っていたのです。今回は、十一世からその当代が襲名するまでの歴史をたどってみましょう。

三衛門時代を築いた十一世、悲劇の十二世

 十一世は、八世の四男で十世の弟。生年一八五七(安政四)年、本名は片岡秀太郎です。前名は三世片岡我當で、まずは大阪で活躍。和実を得意としました。和実とは、和事に実事を加味した演技の形。和事は濡れ事(男女の性愛を表現する演技術、場面、演目)を中心とする“ヤワ”な男性の行動を表す演技様式、実事はごく普通の男性が苦悩する様子を描写する芸のことです。十一世は一九〇三(明治三十六)年東京に出て、坪内逍遙の『桐一葉』など新歌舞伎にも実力を発揮しました。この後大阪に戻り、一九〇七(明治四十)年に十一代目片岡仁左衛門を襲名します。その後再び東京へ出て常住。明治の終わりから大正にかけて、五代目歌右衛門、十五代目羽左衛門とともに、三衛門時代を築き、東京の重鎮となります。晩年には、十一世に合わせて作られたという『名工柿右衛門』の柿右衛門など、味わい深い老け役で人気を博しました。家の芸として『片岡十二集』を選定したり、片岡少年俳優養成所を作ったりと、さまざまな形で歌舞伎に貢献。養成所からは、映画界のスター、阪東妻三郎と片岡知恵蔵が輩出しています。一九三四(昭和九)年、芸ひと筋に生きた一徹の人生を閉じました。
 十二代目を継いだのは、十世の養子で甥にあたる本名片岡東吉。生年一八八二(明治十五)年。前名は片岡我童です。十二世は気品のあるクールビューティの女形で、我童のころから十五世市川羽左衛門の相手役として活躍。女形のため、先代と違い過ぎるという意見もあったようですが、その先代の遺言で、一九三六(昭和十一)年、無事襲名します。『阿古屋(あこや)』を得意とする一方で、『源平布引滝』二段目「義賢最期」の壮絶な義賢など、実は立役もよくこなしました。ちなみに『阿古屋』は劇中、琴・三味線・胡弓を演奏しなければならず、今は玉三郎しか演じることができません。敗戦直後も焼け残った劇場に出演していましたが、一九四六(昭和二十一)年、一家惨殺という悲劇に見舞われます。戦後の食糧難による食べ物の恨みが引き金とか。激動の時代に翻弄されながらも歌舞伎の歴史に名を残す美貌の俳優でした。

関西歌舞伎を支えた十三世から当代まで

 十三世については、まだ記憶に残る方も多いと思います。名優十一世の愛息で本名片岡千代之介、生年一九〇四(明治三十七)年。本人は自著で実際は明治三十六年と記載しています。東京での初舞台は一九〇九(明治四十二)年。前名は片岡我當、襲名は十二世没後五年目の一九五一(昭和二十六)年。衰退していく関西歌舞伎に心を痛め、一九六三(昭和三十八)年、私財を投じた家族総出の自主興行「仁左衛門歌舞伎」を打ち、五年にわたって続けるなど、関西歌舞伎を盛り上げるために奮闘しました。明治生まれで、昭和、大正、平成と舞台に立ち続け、最晩年は緑内障で完全な盲目でしたが、それでもなお立役を勤めました。重要無形文化財保持者、つまり人間国宝であり、芸術院会員。一九九四(平成六)年、九十歳の生涯を閉じます。
 この翌年、一九九五(平成七)年、十五代目、すなわち当代が片岡仁左衛門を襲名。十四代目は、十二世の長男、十三世片岡我童に、死後追贈されています。当代が一躍脚光を浴びたのは、前述の自主公演で演じた『女殺油地獄(おんなごろしあぶらのじごく)』の与兵衛とも。現在にいたる活躍ぶりは、ご存じの通りです。

(参考資料:『【岩波講座】歌舞伎・文楽 第2および第3巻 歌舞伎の歴史Ⅰ・Ⅱ』岩波書店、『歌舞伎 家と血と藝』講談社、『新版 歌舞伎事典』平凡社、『かぶき手帖2017年版』日本俳優協会・松竹・伝統歌舞伎保存会、『歌舞伎ハンドブック第3版』三省堂

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中村歌右衛門家の見どころと見せどころ

2018年6月1日配信

 中村歌右衛門は、2001年に六世が亡くなって以来空席が続く大名跡。女形の名跡として知られていますが、実は、四世まで立役(男性の役を演じる俳優)の名跡でした。

スター立役だった初世、三世、四世

 初世歌右衛門(1714〜91)は金沢出身。江戸中期の大坂で、狂言作者の初世並木正三とタッグを組み、次々とヒットを飛ばしています。初世歌右衛門は、威風堂々として気品があり、大きな目で鋭い眼光を放つ名立役。初世正三が初世歌右衛門のために書いた、悪の華のごとくの敵役を見事に演じ、スター役者に。一方で、善人の役でも当たりを取る実力派でした。門弟中村東蔵が二代目を継ぎますが、8年で返上。
 三世(1778〜1838)は初世の実子で、文化文政期の上方を代表する名優。小柄で容姿に優れず、しゃがれ声だったにもかかわらず、工夫に富んだ芸風と、役作りのみならず衣裳考案まで担う勤勉さとで、あらゆる役を演じ分けました。敵役、立役、女形、所作事を得意とし、その芸達者ぶりは、万能役者を表す“兼”が名前の上に付く、きわめて稀な“兼ねる番付”を出すほど。こうして三世は、役割分担制ではなく一人の役者がさまざまな役をこなす流れを作り、さらに、人形浄瑠璃の作品を歌舞伎にした“丸本物”の演出の基礎も固めました。江戸にも三度くだり、三都で人気役者に。晩年は狂言作者も兼ね、一時初代芝翫も名乗っています。
 四世(1798〜1852)は三世の養子。幕末の江戸で活躍しました。ちなみに、屋号を加賀屋から成駒屋に変えたのはこの代。立派な風采で押し出しがよく、世話物よりも時代物が得意でした。三代目中村仲蔵によれば「悪いときでも七、八割は客が入る」ほど人気のある役者だった*とか。舞踊を得手とし立役でありながら女形も勤めています。

演技力にも政治力にも長けた五世、六世

 五世(1865〜1940)は四世芝翫の養子。四代目福助時代に、團菊左(初代左團次)とともに史上初の天覧歌舞伎に出演。その後も九代目と五代目の相手役を勤め、1903(明治36)年両名が没した後は、女形でありながら、歌舞伎界に君臨します。実は、父から芝翫の名とともに莫大な借金も継ぎましたが、完済したうえ、1911(明治44)年五代目歌右衛門襲名のころには、千駄ヶ谷の二千坪の敷地に大邸宅を建てるほどの資産家に。鉛毒で体が不自由になったものの、たぐいまれな美貌と気品溢れる芸風とで、生涯を通して、時代物の姫や武家女房などをよくし、観客を魅了。新作にも意欲を示し、坪内逍遙『桐一葉』『沓手鳥孤城落月(ほととぎすこじょうのらくげつ)』の淀君を初演します。演じるにあたり、医師を装って巣鴨の病院を訪れ精神を病んだ患者の実態を見学、淀君狂乱の場に役立てるなど、近代演劇の手法も用いました。
 六世(1917〜2001)は五世歌右衛門の次男。本名は母方の河村姓を継いでいます。五世が没したとき、六世は弱冠24歳。後ろ楯をなくしたことで辛い目にも遭いますが、初世吉右衛門に預けられて着実に芸を磨き、終戦後の1951(昭和26)年、再建された新歌舞伎座で六代目歌右衛門を襲名します。女性の役のみを演じる“真女形”で、繊細にして華麗な芸風。娘役、傾城役、年増役など当たり役は数知れず。舞踊にも優れました。自主公演「莟会(つぼみかい)」を組織し、海外公演も多くこなすなど、歌舞伎の発展にも尽力。史上最年少の46歳で日本芸術院会員。1979(昭和54)年文化勲章を受章。日本俳優協会会長は、代行時代も含め30年間務めています。
 七代目は九代目福助が襲名するものと決まっていましたが、福助が病に倒れたためいまだ空席です。とはいえ、中村歌右衛門家では、一昨年八代目芝翫が息子3人とともに華々しく襲名披露を行い勢い盛ん。若手の成長も楽しみな家です。

 次回からは、狂言の種類、役柄など、知っておくとより歌舞伎が楽しくなるあれこれを、まとめていこうと思います。

(参考資料:『歌右衛門の六十年─ひとつの昭和歌舞伎史─』岩波書店、『歌舞伎 研究と批評 52』歌舞伎学会、『【岩波講座】歌舞伎・文楽 第2および第3巻 歌舞伎の歴史Ⅰ・Ⅱ』岩波書店*、『十一代目團十郎と六代目歌右衛門 悲劇の「紙」と孤高の「女帝」』幻冬舎、『歌舞伎 家と血と藝』講談社、『悲劇の名門 團十郎十二代』文藝春秋、『新版 歌舞伎事典』平凡社、『歌舞伎ハンドブック第3版』三省堂、『かぶき手帖2018年版』日本俳優協会/松竹/伝統歌舞伎保存会)

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