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「高校の『数学』はただの『算数』?~「学力」のいろいろ~」

中学校や高校の「数学」という科目、実はただの「算数」程度のものであろう。

学力の発展には三段階あるのではないか、と感じたのは、アメリカ留学最初の1年を終えた夏休みのとき。その夏、僕はフィリピンのネグロス島にコミュニティ開発のインターンシップに参加していた。

僕は高校までは、「覚える」ことばかりやってきた。教科書の内容を覚えて、ひたすら問題に答えるわけだ。

一方、大学の学びにおいては「主張する」ことが要求される。留学したアメリカの大学では論文の課題が山ほど出た。留学して最初の秋学期の11月(12月上旬がfinal examなので、11月は締め切りが迫った課題などの提出で特に忙しい)、僕は8つもの文章を書かされた。内容や字数は様々だが、いずれにせよ覚えた事柄、理論を使って情報を収集・分析し、論理的に主張することが大事だとされた。また授業でのディスカッションの際にも同様のプロセスを経る。このような知的営みを「学問」と言う。ただ単にいろんな事柄を知識として暗記する作業は、学問とは言わない。

この様に考えると、高校の「数学」はただの「算数」だ。なぜなら、結局は計算方法や基礎的な幾何の定理等を練習しているだけだからだ。

同様に、高校までの「歴史」も「歴史学」とは言えないであろう。年号や出来事、人物を時系列で整理し覚えるのが「歴史学」なのではない。「歴史学」の本質はむしろ、人々の主張の背後に潜む時代背景を明らかにすることにあると思う。

例えば、ある人が「人間の本性は生存を懸けた闘争心である。故に国家間の戦争は避けられない。」と言ったとする。この主張の背景には、恐らく国家間の戦争が頻発していた時代背景があるはずだ。別の言い方をすれば、ある人の過去の経験、同時代の出来事、社会的風潮などがその人の意見、性格などを形づくる。

留学して最初に受けた歴史の授業で、先生がよく"think historically"と言っていたのは、まさにこのことである。このように、「歴史学」は他者とよりよくコミュニケーションし、お互いをよりよく理解するための知的営みである。歴史事項を覚えることは歴史学ではない。

実社会に出れば、意見を主張するだけでなく、「損得」とか「有効性」といったものを検証することが求められる。

今、あの夏参加したフィリピンのインターンシップで求められたのは、まさにこれだった。貧しい農村の所得向上といったことに取り組むとき、現場で求められる学力はより一層高度だ。

「学問」においては、取り敢えずデータを集め、論理的に分析・主張できれば、その成果は学術的・科学的であるとみなされる。実際に役に立つかはあまり関係ない。一方、現場においては、その主張が社会的に正しいか、正しくないか、効果があるのかどうかが問われる。正しくない場合、事業計画は実施されないのである。高校までずっと「覚える」作業ばかりで、その時、ようやく「主張する」ことを身に付け始めていた僕にとって、フィリピンのインターンは困難の連続。さてどうしよう、と頭を抱える毎日であった。

水平線に沈む夕日を眺めながらビールを飲んだり、蒸すような暑さのなか方々に出掛けていったのは、今となっては楽しくも、ちょっぴり苦しい、良い思い出である。

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