現象の多面性を感じるための思考実験

この文章は、東京芸術大学のアート×福祉DOORプロジェクトの中の授業の一環でボク個人が作成した作品の一部です。



今回、京都にある児童養護施設の施設長の方に数回に渡るインタビューを実施しました。そのインタビューを通して感じたのは、現象の多面性でした。そして、その多面性を見ることが出来ない社会です。

ある虐待の事例です。
我が子を虐待してしまった母親は、実は自身も子供のころから長く親からの虐待を受けていました。親の愛とは何たるかを感じることが出来ないまま大人になり親となりました。

ある母親は夫からの虐待を受けていて、その苦しみを相談する人が周りに誰もおらず、ただひたすらに耐えることしかできませんでした。

そんな母親が、気づくと我が子を虐待してしまっていた。
この事例に登場する親は、決してしたくて虐待をしているわけではありません。虐待をしてしまっている親も苦しんでいる。虐待をしてしまう自分自身も責めている。親も実はケアする対象であるということが分かります。

虐待を肯定は全くできませんが、その裏にある背景を知ると、そこに分かりやすい悪は存在しないということが分かります。すべきことは、加害者を責めることではなく、その現象そのものの解決にはどうするべきかと考えることだと分かります。もしかすると、世の中で起こる不幸な現象は、関係者はみんなが苦しんでいるのではないでしょうか。

施設の方がおっしゃっていた、「本当に虐待をなくすには、子供のケアではなく、そもそもその親のケアをしない限りは無くならない。」という言葉が印象的です。





ただ悲しいかな、現実は、特定の人を責める行為が目に付きます。それは自分も含め、その現象に対する一面しか見れていないからだと思うのです。(そうではなく、自分のうっぷんを単に発散する場所を探していただけなケースもあると思いますが、今回はある種の正義感から攻めの行為に走ってしまうことに注視してみたいと思います。)


虐待でいえば虐待をした事実だけに目を向けて、その背景まで見ていない。なので、虐待は悪だと安易に決めつけて攻めてしまうのではないでしょうか。


ですが、この責めるという行為はとても危険だと我々はだんだんと実感しているのではないでしょうか。
SNSでの誹謗中傷がその最たる例です。誹謗中傷がエスカレートして、結果自ら命を絶ってしまう人がいます。

我々はもっと責めるという行為の凶暴性を知らなければいけません。
そして責めたとしてその問題が本当に解決するのかも、一度立ち止まりしっかり考える必要があるかもしれません。


ものすごく簡単な例ですが、宿題をやらない子供に、宿題をやりなさい!と叱ってもやらない、むしろ余計に反発心を仰いでしまったりする。責めるとは、その事象の解決ではなく、事象を受け止めきれずについやってしまった。なんてことが実際のところ多いのではないでしょうか?




今回、初めて児童虐待の現場で起こっていることを知ることができました。知ったからには、この現実に自分は何ができるだろう。何かをしなければ。そう思っています。それが知った者の役目だと思うのです。その何かというのは大がかりでなくても良い。自分自身の毎日の行動を少しでも変えてみることだって良いと思っています。


児童虐待という社会課題の本当の姿を知ることなく、その一面性しか見ないで責めてしまう。それは結果として不要な苦しみや、悲しみを生むことに繋がりかねない。児童虐待という課題そのものを解決することはできなくても、その課題をきっかけとした不要な不幸を生まない努力は直接関係ない我々でも出来るはずです。

そしてこの、不要な不幸を生まないは、児童虐待に限らず、多くの社会課題に共通するテーマだと思います。

その共通テーマに自分なりに取り組んでみる実験が今回です。この実験を通して、世の中で起こる現象の多面性に少しでも思いを膨らませてもらいたい。

責めるよりも優しさをもってして向き合う。そんな変化が少しでも、たった一人の人の中にだけでも起こってもらえたらと思います。


〈こちらの添付ファイルから、実際に思考実験を試してみてください。〉


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