0515岩下: 演技の説明可能性について

演劇公演をアーカイブする意義について

アーカイブ作業によって演技を作る意識とプロセスが変わった、という話をします。

今、かつパラは5,7,10月と連続して公演を打つシリーズ公演を企画しています。5月は緒方演出、7月は岩下演出、10月も岩下が演出する予定です。中でも5月、7月をワークインプログレスと位置づけ、実験的な試みを導入することにより今までの演劇制作の過程を問い直すことを目的としています。

この企画を立ち上げて自分の意識が最も変わったなと思うのが、アーカイブに対しての意識の高まりです。アーカイブとは、自分たちが何をしているのか、何をしてきたのかについての解釈とその記録のことです。時折演劇を作る人と話していて「かつパラではどんなことしてたの?」と聞かれて困っていたのですが、今なら答えられる気がします。

5月公演をワークインプログレスとして位置付けたことと、それに伴ってアーカイブ作業に力を入れたことは、企画当初は予期できませんでしたが、結果的に相乗効果をなして強く結びつき、お互いの存在意義の基盤となっています。

「ワークインプログレス」という言葉を逃げ口上にせずに、しっかりとアーカイブ作業を挟んで評価を下し、次に繋げる。一方で、アーカイブ作業はこれまで軽視されていたように、作品を作る実践家である限り作品の記録以上の意味はないけど、連綿とした一連の企画の中では「実験的制作方法を解釈しなおしその是非を評価したい」とモチベーションが生まれる。

役者の立場から見ても、アーカイブ作業は演技に大きな影響を与えました。つまり、僕は従来神秘主義的な演技観を取っていたのですが、より言葉で説明できる部分を増やしたいと思うようになりました。次の項でより詳細に立ち入っていきたいと思います。

(作演出ではない)主宰として、アーカイブを担当したことが役者としての自分にこのような影響を与えるとは思ってもみませんでした。

演技の説明可能な部分

アーカイブ作業を担当していると万事につけ「これを後で語れるようにしたい」と思うようになります。当然演技もその欲求の対象になっていき、演技のうち説明不可能な部分(無意識の領域)と説明可能な部分(意識の領域)とを切り分ける思考に辿り着きます。

上で、神秘主義的な演技観と言ったのは、無意識の領域に演技の本質があり、意識の領野で扱えることは軽視される考え方のことです。

「熱演」することは、神秘主義の大好物です。熱演の一例ですが、僕はケンカの場面などを演じていると段々身体が内側から熱くなっていって、自分の顔の表皮がムズムズするような感覚に襲われることがあります。こういう肉体的な高まりを「熱演」と呼んでいます。

ちなみに今でも私は「熱演」に対してポジティブな立場をとっていて、声を出して目の前の相手と関わるという演技の本質的な部分だから大切にしたいと思っています。ただ、それだけが本質だと考える限り、演技の説明はかなり限定的なものになってしまいます。

「身体の内側から熱くなっていって……」というのは役者がその内面を描写する語彙にはなっても、他者がそのプロセスを追体験できるような説明にはなっていない。つまり、演出の語彙としては不適切です。

翻って演出の立場になった時、こういった身体の内側での変化を直接的に言葉にして、役者に要求することは極めて難しい。役者に「熱演」してほしいと思っても、その熱の描写を続けるだけではそこに到達できない。

だから、演出家にとって(または演出的目線を内在化させた役者にとって)、演技の説明可能な語彙を増やすことが重要になってきます。演出家にとって説明可能というのは、役者にしてみたら操作可能ということで、身体のうち意識的に操作できる部位のことです。例えば脈拍を意識的に高めることはできない(できる人もいるらしい)けど、手足指は意識的に比較的自由に動かせる、とか。

聞いた話によると、膝の向きは相手への興味・関心をよく表すらしいです。相手への興味・関心は内面的なもので操作不可能だけど、膝の向きなら操作可能。「顔や声色はにこやかだけど、膝が明後日の方向を向いてる」とかそれ想像するだけでいやらしい機微じゃないですか?表現したい!という気持ちが湧いてくる。

今回は特に部屋で完結する会話劇なので、そういう機微をわざとらしくなく表現したいと思っていて、こういう「身体と顔のずれ」みたいなところを起点に演技を作ろうと思っています!最初の話と繋がってる?繋がってないかも。

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