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【万歳、 日常】 沈黙の中の会話 (2024/07/15)

電気湯の公式インスタグラムでのリレー連載『万歳、日常』から僕のポストを転載。日常を綴ります。


先日、会話とはなんだろうか、みたいなことをメンバーたちと会話した。毎日やっていることだからか、しかもそれがお互いにやっていることだからか、会話という行為自体に意識を向けたことはいままで全くなかった。
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僕の中で、電気湯の中のベスト会話人は副店長のはるなちゃんと月曜番台の林くん。二人とも、なかなか会話のリズム感がよく、沈黙も楽しく、話していて飽きない。個人的な相性はあるにしろ、二人ともまちの人からもとても愛されていることから、たぶんすごい能力なんだと思う。僕には、あの人たちのような会話はできない。
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プライベートな会話の不一致は、往々にして沈黙のリズムの不一致にあるように思う。僕たちはお互いの顔色を注意深く伺いながら、そして口にする意味を限界まで薄く引き延ばしながら、どうにかして交互に音を立て続ける。楽しい会話に沈黙なんてものは含まれない、沈黙は無意味である、と、多くの人が思っているのだろう。
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この世のほとんどのことがそうであるように、沈黙についても世界中の思想家たちが論じていた。ローマ時代の雄弁家キケローは、「沈黙は会話に必要不可欠な要素の一つである」としていた。17世紀の文学家のフランソワ・ド・ラ・ロシュフコーは、沈黙を同意、非難、尊敬、思慮深さの4つの種類に分類している。また、ハイデガーは著書『存在と時間』において、「本当の意味で沈黙を守るには、偽りのない会話が不可欠である。沈黙が物事を生み、無駄話を排除するのである。」と記述していた。
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ただ、ロシュフコーもハイデガーも、沈黙は諸刃の剣であることを大いに認めていた。沈黙とは、ごく限られたものにのみ与えられた能力であり、その名手さえ間違いを犯すことがある、と。加えてハイデガーは、「未熟な話し手は、沈黙することによって従属の姿勢を露呈する」と強調していた。
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これは確かに的を得ている、と思いそうなところを、ほんの少しの違和感が遮る。沈黙とは、果たして本当に「未熟な話し手による従属の姿勢の表明」なのだろうか。最近では、沈黙がまったくもって許されないような空気感が蔓延し、お互いにがんじがらめになってしまって、どんどんと生きづらさが増していくような気がする。お互いに「従属の姿勢」を露呈したと思われないように、どうにかして確からしい言葉を並べて、まるでカードゲームでもやっているかのように、ことばのデッキを見せびらかしている。
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刺激的な感情に引きずられていって、どんどんと負けん気の強さだけでかくなっていったって、こんなものではどうやったって本当に言いたいことなんて伝わり合えない、と思ってしまう。「ある」ことに慣れてしまって、「ない」ことの大切さを忘れてしまってはいないか。相手の沈黙を打ち消すような自分の言葉に酔いしれて、沈黙の心地よさを忘れてしまってはないか。人生で初めて父親を乗せてドライブしたときに、いつもは気まずかった沈黙が、どういうわけか本当に心地よかったのを思い出す。
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頭木弘樹氏のエッセイ『口の立つやつが勝つってことでいいのか』(青土社, 2024)の冒頭に、「うまく言えないことの中にこそ、真実がある」と書かれていた。お互いの人生を交換するための会話として、あらゆる言葉を尽くした先に、読解・表現しようのない沈黙が存在するのであれば、その沈黙こそ、本当に伝え合いたいことなのかもしれない。
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...あらゆる神秘的な力のうちで、魂のあらゆる美徳のうちで、また人の精神が成し遂げたあらゆるもののうちで、たとえ少しでも理解されたとしても、沈黙ほど誤解されてきたものはない。
...いや、沈黙について考えること自体がそもそも誤りなのだ。なぜなら沈黙の本質は純粋な 存在、すなわち無であって、全ての思惟作用や直観の及ばないものだからである。...
...沈黙はスフィンクスの謎に対するこたえではない。そのこたえによってうみだされるものこそ沈黙である。何故なら沈黙は完全性に対して平衡を保つものだからだ。
...直観や霊感自体が沈黙の讃歌を響かすことはできないのだ。 魂の意思は愛であり宇宙の響きであり法則であり叡智であり、また沈黙、無、0そのものなのだ。

( Foolの注釈,『トートの書』,アレイスター・クロウリー,国書刊行会,2004年)

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2024/07/12 - Original Post
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