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【万歳、 日常】 「ウチ、『コミュニティ』ありますよ!」 (2024/07/15)
電気湯の公式インスタグラムでのリレー連載『万歳、日常』から僕のポストを転載。日常を綴ります。
ちょっとだけ更新をサボり、ちょっとだけ夏風邪をひき床に臥していたので、(仕事はぼちぼちしていたのですが)文章を書くのは久しぶりな気がします。気がつけば7月も末、今週末は隅田川花火大会ですね。
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みなさんはどうかわかりませんが、僕自身、花火大会というものには人生で3度ほどしか行ったことがありません。4度、と書きそうになりましたが、ぼんやりと思い浮かべた記憶のうち一つは、2012年くらいに見た京都の大文字焼きが「花火」に分類されていたものでした。まあ、たくさん人がいて、どこかに火が上がっていれば花火なのかもしれない。
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高校3年生の夏に浅草の花火大会に行った際、「花火ってマジすごい」みたいに思ったのと同時に「たぶんもう来ない」と思った記憶があります。なんてったって人が多い。可憐な花火の美しさよりも、人が多すぎて居場所が定まらないのに移動もままならないことと、むせかえるくらいに湿気が高すぎることの不快感の方が遥かにデカかった。
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「人が集まること」はそこまで嫌いではないし、誰かと距離が近いこともそこまで苦ではない、と思っているのですが、こうも人が多すぎるとなかなか気が滅入ってしまいます。物心ついた頃にはあらゆる花火大会が人の海になっていたと思う。物心つく前はどうだったんだろうと思って考えてみても、物心なんてついてないんだからあまり覚えてるはずもない。
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最近では、どこに行くにしても「人がいる」ということが求められ過ぎている気がします。やれ「コミュニティ」だやれ「コ・なんちゃら」だと、「うちの施設にはエアコンがついています」と同じような勢いで「そこに誰かが集まっていること」をアピールするものだから、なんだかそこに行く自分/行こうとする意思すらも切って貼って商品化されてしまうんじゃないかと怖くなってしまう。
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古くはイギリスの田園都市開発で、理想的な「コミュニティ」が約束されているかのように住宅が売り出され、最近では渋谷・原宿エリアの再開発では言い訳のように「コミュニティ」が語られ、そしていわゆる貧困やスラムなどに代表されるような都市問題の解決策ではまさに終着点のない問題のニセモノの出口として「コミュニティ」が語られてきました。どこに行ったって、「ここに人が集まっています」と、その暴力性も顧みずに主張してくる。「脱毛しろ」「二重にしろ」「転職しろ」と同じくらいの圧で、まるで花火大会の夜の湿気くらいに、ちょっと暑苦しく、だいぶ息苦しくも感じます。
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別に「コミュニティ」が嫌いなわけではない。むしろ、「人がいる」ということが求められ過ぎているように見えてしまうのは、実際に「誰かと出会う」ことが求められているんじゃなくて、みんな「誰かと出会うことを可能にする環境と機会を整備し続ける(誰かと出会うための環境と機会、ではない)」ことから逃げたいだけなんじゃないか、と勘繰ってしまうような、そう思わせてくる「コミュニティ」とか「〇〇な地域」とかのことばづかいが、ちょっぴり苦手です。まち、耕そうぜ。
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2024/07/27 - Original Post
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