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あいまいを許容すること

仕事で会議が長びくことがしばしばあります。
観察していると、組織にこれまで長く在籍されている人ほど自分の意見を押し付けず、「私は・・・と思うけど、みなさんどう?」と聞くのです。
なので、いつも遅くなるわけです。

私はこの議論の様子を見ながら「経験者なんだから、結論をあいまいにせず、スパッとパシっと決めればいいのに」とおもうときがありました。

また、最近プライベートで英語の勉強にお付き合いしている方がいます。
その方の勉強のため、と思い、ちょっとした英語の質問をしたりしていたのですが、「負荷があると勉強が辛くなるから、ゆるく会話を楽しむように関わりたい」と言われました。
私としては、ゆるい会話って何をするのかよくわからないし、だらだらしてしまわない?、と思っていました。

どちらの例でも私としては、「曖昧さ」を許容すると組織・個人の成長にネガティブな影響をもたらすのではないか、と思っていたのです。

しかし、「曖昧さ」を論じた下記の投稿から読み取れるのは、曖昧さは毒にもなるかもしれないがむしろいい薬になりえる、ということなのです。

この池さんの投稿の視点は目からウロコでした。あいまいだからダメと結論せず、いいところを考えてみようと思いました。

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たしかに、会議の例では、時間ばっかり使ってしまって、いいことはありません。「また次回持ち越しか・・・」なんてことになります。

一方、その背後にある組織の思いとしては「話をしっかり聞き、皆が腑に落ちるところを目指そう」としているところがあります。
しかも、特に組織に長くいる人たちほどその思いが強いのです。
話を聞く対象は初心者・未経験者関係ありません。

その意味で、今所属している会社・組織のダイバーシティ/インクルーションレベルはかなり高いと思っています。

曖昧にすることで心理的安全性が保たれる組織にできるのかもしれません。

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私が今英語の勉強のサポートさせていただいている方は、英語の勉強を始めては挫折し、、を繰り返してきたそうです。

それを聞いたからには、私も気合いが入ります。
まずは学びを習慣にし、できるだけ最短で習得してほしい。

そう思うのですが・・・
その方は、性格上、宿題は嫌なのです。
幼少期、親に勉強を強要され、嫌といえなかった辛いころの記憶がよみがえるようなのです。

したがって、ご本人としては、日常会話という特に何かを目指す会話でも無いところを楽しむことから入りたいのです。

私から見ると、曖昧な時間のかかるやり方ですが、ご本人の意志もあり、そのやり方でサポートしています。
するとその結果は・・・
決してダメなことはなく、寧ろたのしんで継続してらっしゃるのです。その中でたくさん質問もされています。

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「日本人の良い意味での “曖昧” な文化」にこそ学びがある

「曖昧さ」という強み (池辰彦)


曖昧さにポジティブな意味があることを認めるだけで、「これってどうなの?」と思っていたものについて大事な側面を見出せました。

ありきたりなのですが、あいまい=ダメ、と決めつけず、多面的に物事を見るべきだとつくづくおもうのでした。

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