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ワクワクが恐れを吹っ飛ばす時

自分が心底願った夢を叶えたくなった時、今行動を起こさなかったら一生後悔するぞと思えた時、その時感じるワクワクは、恐れを吹っ飛ばす!

2005年春、僕は行動を起こすこととした。夢だったアメリカに赴任して2年が経っていた。日本にいる上司から、あと1年、2006年3月末をもって、日本へ帰任するようにとのお達しを受けた。2年の赴任予定でアメリカに来ていた。1年延びて感謝すべきところだ。しかし、アメリカにいられる赴任期間の終わりを告げられ、現実を突きつけられた気がした。夢だったアメリカで生きて、働くという生活が、あと1年で終わる。

アメリカに赴任したいというのは、僕が日本で会社に入ってからずっと持ち続けていた夢だった。自分がこれまで生きてきた環境や文化とは全く異なるところで、どんなことが体験できるのだろう? 想像するだけでワクワクした。希望を出し続けたにもかかわらず、実際のアメリカ赴任はなかなかかなわなかった。腐りかけたこともあった。37歳になってようやく赴任が実現した。夢が叶った。

実際のアメリカでの生活・仕事の楽しさは、日本でイメージしていたものをはるかに超えていた。夢は実現し、2年間、充実したアメリカでの日々を過ごさせてもらった。さらに、来年、2006年3月までほぼ1年間、アメリカ滞在を延長してもらった。それに感謝して、3年間のアメリカ生活を十分に満喫しよう! そして、3年間満喫したら、上司の指示通り日本へ帰ろう! 夢を実現してくれた会社にも上司にも感謝だ! その後は、満喫したアメリカを思い出しながら日本で奉公だ!
とは、到底思えなかった。。。
どうしても、往生際悪く、もっとアメリカに留まりたかった。
夢が終わった後、日本で楽しく働く自分がイメージできなかった。


「一か八かアメリカで転職してみようと思う。」妻に話してみた。
「いいんじゃない。やってみたら! やらなかった後悔はずっと残るけど、行動のあとの失敗は笑い飛ばせるから!」
いいことを言ってくれるじゃないか!

すぐに見様見真似で英文履歴書(Curriculum vitae, CV)を作り、リクルートカンパニーに片っ端から連絡して、日本人でも雇ってもらえるポジションを探した。

僕たち夫婦には子供はいない。路頭に迷うことになったって、自分たちだけの責任を取ればよい。アメリカに残るワクワクが、それにより失うものの恐れを一蹴した。アメリカに残るための転職は、なりふり構わなかった。赴任期間が終わってしまう前に、とにかく日本人を雇ってくれる転職先を見つけなければならない。細かい条件は気にしてられない。何としてでもアメリカに留まるんだ!

自分の中のワクワクを信じ、恐れを一蹴する。軌跡を起こすために、なりふり構わず行動する。奇跡が起こることを願う。すると、面白いことに奇跡は起こった。アメリカで転職し、永住権を得ることができた。その奇跡は、以前に書いたので、ここでは割愛する。

日本から会社のサポートを受けて赴任してくる身分は本当に恵まれていた。日本にいる間に、会社が、海外就労ビザの取得、海を渡る引っ越しの手配、一時滞在アパートなど全部面倒見てくれる。アメリカに赴任してからも、現地での家探し、法的・銀行手続き、経済支援なども至れり尽くせりだ。会社から紹介された現地の日本人不動産屋さんが、あらかじめ希望に合った候補の住居に車で連れて行ってくれる。大家さんとの細かな手続きもお任せだ。現地の日本人スタッフさんが、役所や銀行へ連れて行ってくれる。言われるがままに用紙に必要事項を埋めると、マイナンバーや銀行口座が得られた。すべて自分で調べてやっていたら、いったい何倍の時間と労力がかかっていたことだろう? 家も、日本では考えられないような大きな庭付きの家を借り上げてくれる。アメリカを体感している気分になっているが、日本の会社に守られて温室の中で、すべて体感させてもらっているに過ぎない。転職して、アメリカに残るということは、そんな日本の会社に守られた生活も、失うことを意味する。

アメリカの州をまたぐ転職の場合、転職先の会社がリロケーションパッケージを用意して、引っ越しや新天地での住居購入をサポートしてくれることがよくある。しかし、赴任期間が切れて帰国することになってしまう前に、なりふり構わず転職して、アメリカに留まる必要がある僕には、リロケーションパッケージなどと悠長なことを言っている余裕はない。飛びついた転職先は、当時住んでいたシカゴ郊外から遠く離れた東海岸のニュージャージー州。リロケーションパッケージは一切なく、自分で家を探し、引っ越さなければならない。

至れり尽くせりの日本からの赴任の立場と決別し、転職先が提供してくれるのは、給料がいただけるポジションだけ。現在住んでいるシカゴ郊外のレンタル物件の契約解除も、新たに住むことになる東海岸ニュージャージーの家探しもすべて自分でやらなければならない。

会社からサポートを受けて1年契約で借りていた庭付きの家を、会社を辞めることになり、半年で契約解除して出ていくことになった。そのことを話すと、大家さんは態度を一変して凍り付いた。大家さんからしたら、日本からの駐在さんで会社からの厚いサポートのもとで安心して貸せられる優良な借り手だと思っていただろう。それが、急遽、半年で契約解除して出ていくことになったのだ。結局、ペナルティとして残り半年分の家賃を払い続ける羽目になった。

転職先で仕事を開始する前に、シカゴから東海岸ニュージャージーへ引っ越さねばならない。転職の3週間前の週末に慌ててシカゴからニュージャージーへの弾丸旅行を決行し、転職先の回りにあるアパートを何軒も回り、空室を見つけ急いで契約を取った。駐在員の優遇された一戸建て庭付きの広々とした家から、1ベッドルームの薄暗い安アパートへ引っ越すこととなった。

アメリカ赴任中に転職して、会社を辞めることになった僕は、僕を日本からアメリカへ赴任させてくれた日本の上司に会社を辞める旨を話さなければならなかった。当然、上司はカンカンだ。「将来また赴任させるから、考え直せ。これまで積み上げたキャリアを台無しにしてしまうぞ」と必死に引き留められた。もう決めてしまっている僕は、それで揺るぐことはなかった。ただ、育ててもらい、アメリカ赴任の夢を叶えてもらった上司や会社を裏切ることは、とてもしんどかった。罪悪感は大いに持った。アメリカ赴任先の回りの仲間や、日本にいる元同僚に伝えるのも、しんどかった。これまで、普段通りに何食わぬ顔で仕事をしているふりをしながら、内緒で転職活動を行い、会社を辞めることになったのだから、とても居心地が悪い。ただ、自分の人生だから、どうしても挑戦してみたかった旨を伝えると、たくさんの仲間が僕の挑戦にエールを送ってくれた。

退職日と指定した金曜日の昼まで働き、そのまま、車に引っ越し荷物をありったけ詰め込み、1400キロ離れた東海岸ニュージャージーへ向かった。途中、オハイオ州クリーブランド当たりで1泊し、土曜日の午後、ようやくニュージャージーの安アパートに着いた。日曜日に何とか体制を整えて、月曜日から、新たな会社で、アメリカ挑戦が始まった。そして20年をアメリカで過ごした。

アメリカに残ることに決めて、確かに多くのものを失った。でも、アメリカに残ったことで、それを遥かに凌ぐ多くの貴重なものを得た。二つの人生を並行して体験できないから、比べることはできない。でも、もし何も行動を起こさず日本へ帰国していたら得られなかったたくさんのアメリカでの体験は、今の僕の人生の礎になっているものばかりだ。アメリカに残る人生を、自分で選んで本当によかった!


#自分で選んでよかったこと

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