結局、イメージできるかなんじゃなんじゃ。

 結局、イメージできるかなんだよな、と、大学の講義を聴きながらよく思う。これだけの人数が人生の先輩であり知の研究をしてきたであろう教授の方から知の恩恵を受けられるこの機会に、どれだけの学生がその恩恵にどれほど浴せられているのだろうか、と。

 で、結果的に、インプットした情報をどれだけイメージできるかが学びの分かれ道だと思っている。これは自分ごと化にも繋がっている。
 つまりは、歴史を習うときに、その時代を脳内で作り出せるかどうかということ。
 国語を習うときは、言語や文学の世界が実際に存在すること、それらの美意識を想像するということ。
 理科を習うときは、今ここが自然界であることを認識し、その中にぼくがいてママがいて先生がいて、をイメージするということ。

 なぜ、ぼくが法学部に入学して法律が嫌いになったかがよくわかった。
 法律は、実に世の中の事象を多く扱う。その網羅性は、世のあらゆる問題をカバーしうる。それゆえに抽象度が死ぬほど高い。つまりはイメージが死ぬほどつきにくいのだ。
 圧倒的に抽象度の高い事象を学んですぐに「よしわかった!」となるのは、かなりの運ゲーである。その事象の方向と自分の考えの方向がぴったり合わさるか、自分でその思考の矛先を合わせなければいけないのだから。



 仕事するときもイメージがものを言うと思う。

 評価軸が成果であるならば、おそらく成果をできるだけ明確にイメージできた者は、成果を享受しやすいはず。引き寄せの法則のようだが、実際に計画立てることは必要だと思う。偶然に仕事ができることを待っていてはいけない。

 そもそも、仕事にも種類があるが、ビジネスパーソンに「自分は何をしているか?」という問いに嬉々として流暢に答えられるには、自分の仕事について多くの理解が必要だ。
 つまりは頭の中に、「自分が人生で貴重である時間を大量に割いてまで行う“仕事”はこういった意味がある」というイメージができているのだ。




 うん、独り言なので、あまり参考にしないでください。

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