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2023年上半期映画ベスト55(ほぼ旧作)

1.内田吐夢『血槍富士』(1955)

号泣。たまさか同じ舟に乗り合わせたもの同士がお気楽な珍道中の過程で親睦を深めていく比類なき多幸感からその後の凄惨な展開の落差に、涙を流さずにはいられない。制度に徹底して疎外される人間どもの哀愁。ギャグもホントーに感動的なオモロさ。扉からヌッと差し込まれる長槍!大傑作です。

2.マイケル・スノウ『ラモーの甥』(1970)

今年の上半期はマイケル・スノウのフィルモグラフィーとの幸福な蜜月でもあった。『ラモーの甥』は映画における映像と音声の恣意的な結婚を相対化するラディカルなアイデアに満ちた短編連作で、例えばゴダールのミシェル・ルグランの音楽を扱う手つきが属人的な偏執性に由来するものとして解釈されがちなのと比較しても、より醒めた意識のもと(凄腕の技師めいたタッチで)作品に向かい合っているように思う。ただその上でスノウの映画が素晴らしいのは、常に(本作のラストシーンにも顕著だが)ユーモアの精神を忘れないでいるからこそだ。その態度は一貫して軽やかである。

2.マイケル・スノウ『波長』(1967)

『死ぬまでに観たい映画1001本』にも選出されているスノウの代表作の一つ。壁に貼られた海面の写真に向かって固定されたカメラがズームしていく(だけの)ミニマムな構成の作品。スノウの作品は映画を映画たらしめるものに対しての根本的な思考を促し、欠如が欠損でない事実をただ提示する。その意味で真に実験的だが、劇映画的な要素がカットアップされつつ微量に混入する本作には、ベタな考察的能動性を喚起する「見やすさ」も一方では確保されている(なので入門編にもオススメ)。カメラに取り入れられる光量の操作によって夢幻のように明滅する窓の外の風景は、ここではないどこかを求めるスクリーンへのファンダメンタルな執着を炙り出すかのようだ。Internet Archive(https://archive.org/details/wavelength-1967_202205)でも視聴可能。

2.マイケル・スノウ『Corpus Callosum』(2002)

遊び心あふれるスノウ後期の一作。70代を優に越えていた頃の作品にもかかわらず、まるで童心に帰ったかのような児戯めいたCGの活用に臨むみずみずしい感性には瞠目させられる。情報量の濃淡の操作がクレバーで、身近なインターネット的審美性との類縁性を意識させるようなシーンも。異様なオフィスルームに偏在するオブジェクトとしての虚な労働者たち。唐突に挿入される男性器。監視カメラモチーフを脱臼する子供たちの姿。今年アンスティチュ・フランセ東京で開催の【建築映画館2023】(http://architectureincinema.com)で上映された短編『The Living Room』は、本作のワンシーン。

2.マイケル・スノウ『中央地帯』(1971)

山岳地帯に設置された無人カメラ装置(このために開発)による、純粋化されたカメラの運動(パン、チルト、ズームアップ、ズームバック…)に没頭する3時間。映し出されるのは、ただひたすらに無名の山と空の景色のみ。人間不在の映画風景が露わになる。数回の寝オチを経て、これほどまでのスケールの文化的構造物に遭遇した経験があるかと自答すると、口ごもってしまう。視座そのものが異化された、惑星レベルのまなざしへと到達する途方もない傑作。

2.マイケル・スノウ『<---->』(1969)

ひたすらに反復されるパンとティルト。カメラの高速運動が、風景を抽象化し、鑑賞者の視覚経験を拡張する(それは上記の『中央地帯』終盤のハイライトでもある)。『<---->』においては、教室内時空の過去と現在が、俳優の出現と消失(または出入り)の操作によっても混濁し、そして突き放される。スノウの作品の単独的な屹立にあてられると、個々のタイトルの優劣などといった観点は吹き飛び、普段慣れ親しむ映画制度(鑑賞制度)の無意識的な軛からも自由になって、なんだか解放的な気分になる。他の何者にも属さず、巻き込まれることのない独自の映画言語の開発。スノウは自作をATBのリストに選ぶ。他人が作った映画になんか、目もくれていないからだ。

7.ヴィクトル・シェストレム『風』(1928)

辺境の荒野に地に足つけて生活を築き上げいくことを決心するヒロインを追ったストーリーを考慮すれば、正統な開拓史映画として解されてもおかしくないはずなのに、どうしてか異端な、異物としてしか飲み下しようがないのは、何よりも恒常的に吹き荒れる、風、風、風、その異様さに尽きる。ラスト間際になりようやく『静かなる男』のワンシーンのように祝福として読み替えられるそれは、フラジャイルな魅力の化身であるリリアン・ギッシュを狂気の寸前まで追い詰め、幻惑する。認識の上で虚実曖昧となった世界像の、鬼気迫る迫力!振れるランプの光が精神をも揺るがす。幻の馬のイメージも鮮烈。

8.増村保造『くちづけ』(1957)

縁のしがらみの重さを身体的に深く知悉する男は、女からその身を引き剥がすかのように逃走する。それを必死になって追いかける野添ひとみの姿からして、もう傑作であるのは約束されたようなもの。あまりの幸福に目眩がするような出会いの一日、バイク二人乗りで疾走する場面なんか気絶するくらい良い。機能不全家族原因で失効した愛の運命的な回復。ボーイ・ミーツ・ガールのセオリーでしかないが、十分に研ぎ澄まされたそれは、他に何一つ必要としないこともまたわかる。接吻が事件な映画は名作です。

9.小川紳介『ニッポン国 古屋敷村』(1982)

冷害による不作の実証的検証パートの堅実な手仕事感は、ドキュメンタリーとして現実を扱う手つきの繊細さや尊重の姿勢とも重なりつつ隔たる独特のプロフェッショナリズムのトーンとして映画に通底する。そのような仕方で捉えられた風景の、なんとも豊かなこと。稲穂にさわさわと触れる手。黄金色の炭焼き。田園に響くラッパの音色。とうに鬼籍に入っただろうインタビュー対象の素晴らしき顔たち。

10.ジャン・グレミヨン『曳き船』(1941)

すわスリラーか?と錯覚するど迫力の海難シーンからミニマムな三角関係へと流転していく展開のダイナミズムがまず100点。それぞれが自らに最善たろうとしてもがき、決定的にすれ違っていくドラマは、人間の生に存する全ての苦難を刻みつけたかのようなジャン・ギャバンの圧巻の表情に収束する。誰かが引き受けねばならぬ労働とway of lifeの弛まぬ緊張関係。海辺の家で不倫相手と逢引きする場面の演出が出色。

11.ピーター・ハットン『三つの風景』(2013)

サイレント。風景と点在する人間の対比的な配置が醸す随一のスケール感に驚愕した。とにかく遠近感を掻き乱すような編集が見事。デトロイトの工業地帯、ハドソン・リバー・バレーの牧草地、エチオピアの平原。各地でそれぞれの労働に従事する人々が映像的な詩性でもってゆるやかに紡がれていく。原風景的想像力。

12.石田民三『花ちりぬ』(1938)

禁門の変前夜の遊郭を舞台に、男性の存在の一切を画面から排した(声も全てオフスクリーンな徹底!)とんでもなくコンセプチュアルな逸品。それは重大事に非当事者としての関与しか認められない立場によった、裏返しの構造でもある。階段の登り降りで立体的に立ち上がっていく空間。その帰結として屋上から一人戦火を眺む、終末感漂うラストシーンのよるべなさは衝撃的。

13.ワン・ビン『収容病棟』(2013)

至上の建築映画。無限回廊。行くあてのない歩行を愚直に追い掛けるカメラと、自意識の磨耗した病人たちが時折それを見定める際の鋭利な視線。垂れ流しの小便。格子越しに抱き合う男女。面会に来た妻が癇癪気味の夫を無視して音楽をかける場面のユーモア。食事シーンがどれも素晴らしい。

14.斉藤信幸『昼下りの女 挑発!!』(1979)

大傑作!70年代蒸発妻の放浪譚。そして八城夏子の堂々とした帰還!室外で修理中の車からレストランの室内へのカメラワーク→室内の情婦の視点から室外の公衆電話(個室)へ。ゲイ男性の名台詞「ひとりで歩けるよ」と対応、私的空間の確立=『自分ひとりの部屋』。犯罪者しか出てこないシナリオしか愛せない。そう思わされてしまうくらいに全てのシーンが魅惑的。意志的に脈絡なく暴力だけが蔓延る荒廃した世界で、一貫する君呼称リフレインの末の「君は強い」は本当に力強く沁み入った。堕胎した赤ん坊の骨をカラカラと鳴らし続けるカップル、ダウナーなNTRれ田舎警官など、脇をかためる面々もすこぶる良い。脚本、桂千穂。

15.ジェームズ・ベニング『RR』(2007)

静止したカメラの画角内を列車が通り過ぎていくミニマムな全43カット。カットの持続は編集の生理的なリズムからは自由に、その車両の長さに規定される。始点と終点への意識を薄れさせる緩慢さ(貨物列車の異様な長さ!)に運動の恒常性をまざまざと経験。土地を分有すること。フレーミングの的確さ(これしかない感じ)。人間、対向車線の車両の出現にハッとする瞬間。通勤電車の性急さで笑う。

15.ジェームズ・ベニング『One Way Boogie Woogie / 27 Years Later』(2005)

ベニングの生まれ故郷であるミルウォーキーの景色をワンショット1分60カットで捉えた『One Way Boogie Woogie』(1977年)と、27年後に同じ場所、同じエキストラを起用して撮影されたセルフリメイク作を組み合わせた記録映画。微少な差異から跡形のない変化まで、安易なノスタルジーに絡め取られない対象との距離感を保持しつつ観測される風景は、妙な詩情を纏っている。『RR』同様、フレーミングの適切さに唸った。それだけでずっと観ていられる。

15.ジェームズ・ベニング『El Valley Centro』(1999)

ワンショット2分30秒のカットが35個並べられた3本のフィルムシリーズ「カリフォルニア・トリロジー」の1本目。野焼きを対岸から捉えたショットが印象深い。『Sogobi』の末尾と本作の冒頭の繋がりによってトリロジーは円環を成す。その基調としての水流。

15.ジェームズ・ベニング『Los』(2001)

「カリフォルニア・トリロジー」の2本目。飛行機がこちらに迫ってくる(しかも2度も!)シーンが嬉しい。私はこういう場面に遭遇した時いつも『北北西に進路を取れ』を想起してしまう。奥で試合をしているサッカーグラウンドの手前に家族連れ(?)がフレームインしてくるタイミングにも痺れた。漠然とした空気の正体がバスの登場によって明かされる種明かし感。工事現場→牛の群れ→墓地の繋ぎは問答無用でカッコ良すぎます。

15.ジェームズ・ベニング『Sogobi』(2002)

「カリフォルニア・トリロジー」の3本目。『Sogobi』はアメリカインディアン部族であるショショーニ族の言語で「大地」という意。冴えた海岸線や湖畔や大樹のショット。『Los』でこちらに向かってくる飛行機のサスペンスが今度はヘリコプターによって変奏される。

20.ラオール・ウォルシュ『壮烈第七騎兵隊』(1941)

超速の140分。爆速は正義。基本直進しかできない男と、ひたすら一方通行的に捲し立てる女が束の間並び歩いて、方向転換で脱臼→即時和解の出会いの場面からしてもう運命的。夫が戦地にしか生きがいを見出せないことを悟り、なんとか軍に戻れるよう画策する妻の「献身」。死別を先取りする関係性の終着のやりとり、すごすぎる(へたり込む、というより倒れ込むオリヴィア・デ・ハヴィランド!)。男同士の価値観の相剋が劇的決着する酒場のシーンも最高!(なので後の拉致→戦死の流れは余計か)。

21.舛田利雄『わが命の唄 艶歌』(1968)

本邦「演歌」観への批評的影響著しい歌合戦モノとしての見所の多さに加え、メロドラマとしてもとかく味わい深い。商業音楽の道を邁進する敵役のサイコパス男佐藤慶の孤独に寄り添う演出が泣ける。惑う渡哲也を主演に据え、弁証法的プロセスを一身に体現させることで、強度ある土着的な歌心を捏造する筋書きはなかなかに手強い。

22.シャンタル・アケルマン『ブリュッセル、60年代後半の少女のポートレート』(1994)

シャンタル・アケルマンによる、傑出したティーンムービー。学校フケて映画館に潜り込んで男の子と出会って街をふらついてカフェでべしゃり倒してレコードを万引きして親戚の家に忍び込んで、踊って寝てキスして…。全てが欠けることなく、それでも何もかもが決して十分にはならない。ヒロインが女友達に向ける痛切な視線。向かい合う二人の横顔を行き来するパンの、なんとも甘美なこと!

23.加藤彰『女教師 汚れた噂』(1979)

3万円で体を買われた女教師が、同じ3万円を手にしてタクシーに乗り込み、糸の切れた凧のようにしてここではないどこかへと向かっていく。退廃的ながら気怠く淡い幸福が車内の空間を包み込んでいて、大好きなエンディング。青姦の傍らに放り出された真っ赤な自転車の鮮やかさ。

24.M・ナイト・シャマラン『オールド』(2021)

深い含意を匂わせた理不尽なオチでも締まるだろうに、律儀にしょうもない理屈づけを欠かさない姿勢が、シャマランという監督の本当に重要な資質だろう。商業性の確保とか娯楽性に徹する職人的な作り手だとか、そんな見方とはまるで関係なく、ただただ誠実だと思う。『オールド』でも何よりその俗っぽくて退屈な種明かしに感動してしまった。旋回するカメラワークで出産時のハチャメチャ感を演出するシーンが本当に嬉しい。それにしても、海を越えた先の斎藤環的存在がブチ切れてそうな統合失調症描写である。

25.ヴェルナー・ネケス『Makimono』(1974)

ドイツの実験映画作家による短編。映画で巻物といえば(?)セルジオ・レオーネの『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ザ・ウェスト』ラストのパンが壮大すぎて絵巻みたいになっていたのを思い出すが、本作はスノウ的な手法でもってして標準的に横長であるフレームとスクリーンによる視聴経験に揺さぶりをかけていく。高速なカメラの動きで風景が抽象化していくのもまた『中央地帯』のようなのだけれど、より瞑想的なベクトルに向けて過激にエスカレーションしていくのが素晴らしい。

26.F・W・ムルナウ『都会の女』(1930)

かの有名な小麦畑を走り抜ける男女の移動撮影をようやく目にしてホクホクである。噂に違わずとんでもない多幸感にうっとり。これだけでもう100%満足。いくらなんでも義父の人格が終わりすぎてるし、終盤の和解もよくそれでおさまったなという感じなのが味わい深い。活気ある食堂は到底人心地つきそうもない描写なのに、やけに空間としては魅惑的で、映画のマジックを痛感。

27.デボラ・ストラットマン『この場にいないようにするために』(2002)

アメリカン・アヴァンガルド・ムーヴィ。全編夜間に撮影された断片的な郊外の風景の集積と、監視カメラ映像の大胆なモンタージュによって、生活に潜む不安と恐怖は剥き出しになり、監視は高次の支配と癒着する。シンプルに、ブチ抜けてカッコいい実験映画。Kevin Drummによるサントラもサイコーです。

28.いまおかしんじ『夫がツチノコに殺されました。』(2017)

社会のはみ出しものたち同士が、ちゃんとした会話になっているかどうかも分からないようなやりとりを延々繰り広げて、勝手に大丈夫になっていく。世の中の映画が、ぜんぶこんな風だったらいいのに。女二人が全裸になって夜道を駆けるシーンで今年一番くらい感動した。10年代の日本映画の中でも指折りの傑作だと思います。

29.エリック・ロメール『レネットとミラベル/四つの冒険』(1987)

レネットの硬直した道徳観とミラベルのアナーキーな倫理の凹凸具合がエバーグリーンなペアバランスで、何一つ文句のつけようがない極上の百合映画。てかマジでミラベル最高すぎん?「青の時間」で完全に透き通ってしまった二人と比較すれば、もはやそれ以外の全ては雑念と言っていい。よくここから2話、3話と積み重ねられたなと思う。スパッと終わる幕引き(余韻をぶった切ることによる余韻)も完璧。ロメールはいい映画撮ってますね〜(当たり前体操)

30.ルイス・ブニュエル『忘れられた人々』(1950)

深刻な貧困層の若者たちは同じように社会的弱者である障害者たちからなけなしの金銭を搾取、略奪する。階級的視点にのっとったネオレアリズモの色褪せないエグみ。スローモーションを駆使した幻想シーン、ペドロを荷積みしたロバと母親のすれ違い、そしてラストの廃棄シーン、いずれも掛け値なしの名場面でグッとくる。ifの希望ルートとしての感化院。

31.清水宏『有りがたうさん』(1936)

素晴らしいロングショットの数々に惚れ惚れするロードムービーの傑作。パッと咲いて散る刹那の交流の滋味深さ。身売りする切なさに落涙する女を見遣る上原謙、そしてその様子をバックミラーごしに俯瞰的に見つめる桑野通子の表情!歩行者を追い越す際にバス正面の視点から背面の視点に切り替え、それが都度律儀に繰り返される演出。礼とは反復されるからこそやさしい。「俺は葬儀自動車の運転手になったほうが、よっぽどいいと思う時があるよ」。そのやさしさが、厳しく突きつけられる世知辛さからひと時の安寧を救う。休憩中、集団で行為される投擲の豊かさも見逃せない。

32.F・W・ムルナウ『タブウ』(1931)

近代化前後の狭間で宙吊りされるメロドラマ。神話的な未開地の自然のゾッとするような多面性。楽園と見紛う無垢な川遊びから、暗澹とした海になす術もなく飲み込まれるまで。映画における死に様の恐ろしさとして、なかなか記憶にないくらい群を抜くものがある。敵役の首長がただ家父長的権威のスケールにおさまらず、ショットによって幽玄な存在感を発揮し、世俗的な認知そのものを抑圧する。

33.城定秀夫『扉を閉めた女教師』(2021)

教師と生徒の一線を越える同意が禁断の果実を貪ることで形象されてるのテクいし、冒頭の接吻の接写は、その(汁まみれの)肉感あふれる口元への予告か。水をかぶる山岸逢花→水中セックスの繋ぎの呼吸も抜群(レビューみてなるほど、スコリモフスキ『早春』)。逃走中の窓からの飛び降り→現状打破の打ち上げ花火の爽快感。密室劇の解錠者=救世主を殴り飛ばした勢いで、宗教二世は(プラグマティックな)呪具を放り投げる。そうして再度ホースから水をかぶる山岸逢花最高すぎ。最後の最後のセリフがあるかないかで全く違ってくるし、そういうとこ絶対外さない安心感が城定監督にはある。バケツ小便シーンの「音のソノリティ」的な男の堪能顔ウケた。そしてエロい。

34.三隅研次『子連れ狼 三途の川の乳母車』(1972)

漫画『子連れ狼』を原作とする若山富三郎主演の映画シリーズの2本目。相当なぶっ飛び具合で最高。テンポよくバラバラに惨殺される忍者!謎の後ろ歩き!死に際の長口上!既に幼年の大五郎が能動的な殺人に手を染めていて爆笑。別れの場面でスッと後ろに下がる松尾嘉代の動作の忘れ難さ。ただただ面白いだけ。

35.パク・チャヌク『別れる決心』(2022)

「犯罪的美女」をめぐる寓話として過不足なく高水準で大満足。二人して阿吽の呼吸でテキパキと食後の後片付けを済ませる場面くらいからもうすでにエロい。フラッシュフォワードの頻発する編集とか、物質視点のショットみたいなあざとい語り口も、実質的にしょうもない話だからこそ映えている気がして好印象。その上で、しっかりウェルメイドなサスペンス・ミステリとしても見応えがある。

36.安藤真裕『ストレンヂア 無皇刃譚』(2007)

いまや芥見下々の描くアクションのレファレンスとしても広く人口にその影響が拡散しただろう中村豊作画の精華を(ようやく)鑑賞。当然殺陣がものすごいわけだが、ただ作画アニメとして面白いだけでは毛頭なく、メロい要素を切り捨てるドライな死や、微量の血痕が手繰り寄せるオープンエンドの余地など、随所に秀でたシナリオとの両輪により、洗練された映画としてのフォルムを獲得している。

37.増村保造『赤い天使』(1966)

危機的状況下における迫真のコスチューム・プレイ!「西は勝ちました」堂々たる名台詞!性的ファンタジーとして若尾文子演じる看護師と両腕を切断した負傷兵のやりとりは極限的な快楽を想像させる。何もかも足りなくて、簡単に満杯になる。そうして逆説的に、満たされてしまう生の意味。死屍累々な野戦病院の描写も容赦なくて、人間が行為の型としての身体だけを残してズルズルに崩壊していく様の説得力が尋常ではない。

38.深作欣二『暴走パニック 大激突』(1976)

阿呆らしすぎて最高。意味も何もあったもんじゃなく、ただただタイトル通りのシチュエーションを仕立て上げるためだけに、モブに至るまでの全キャストが真剣に加担して、状況が混沌として昇華される。終盤はもはやカーチェイスというより、車体をその身に宿した乱闘、バトルロワイヤルの趣。サブエピソードが全く有機的に物語に絡まず、挙句は大喜利みたいに死ぬ青年、天晴れ!一番好きな狂人は、せっかく我慢してたのに最終的にプッツンきちゃったTVレポーターです。

39.サトウトシキ『ペッティング・レズ 性感帯』(1993)

女女の情念が吹き荒れる決着の場に相応しすぎて貫禄のある白シーツ、強風のシチュエーション。バリかっこいい。サトウトシキの映画の登場人物の死に様も特筆すべきものがあって、とにかく血の通っていない即物的な(実際に撮影にはもろ人形を使っているのだが)轢殺(ぶっ飛ぶ死体)シーンなど、目を見張るものがあった。記念写真のフレーム内への闖入によって、その行動の異常性が際立つアイデアも光る。

40.カール・テオドア・ドライヤー『吸血鬼』(1932)

傍目にはアワアワしているうちにいつのまにか死んでいて、その境目の朧げさこそが恐ろしい。納棺POVショットは流石の楽しさ。濃霧の中を漕ぎ出す舟と、粉まみれの生き埋めシーンのカットバックで煽られる緊張感が一体何に由来してるのか全然ピンとこなくて、異様な視聴経験だった。

41.オレクサンドル・ドヴジェンコ『大地』(1930)

「ソビエト映画の三大巨匠」の一人、アレクサンドル・ドヴジェンコの代表作。映画史・ユーラシア文化研究者の井上徹によると「ドヴジェンコの『大地』においては、麦畑やヒマワリの花、果実などがしばしば画面に登場する。これら農産物、さらにはトラクターまでもが「登場人物」として振る舞い、人間と並列され、さらには人間を置換し代理となることを通じて、映画における人間の身体の特権性が解体され再構築される」。ならば、花田清輝による「鉱物中心主義」的ビジョンと切り結ばれ、潜在する革命の萌芽として読むことすら可能かもしれない。

42.京田知己『ラーゼフォン 多元変奏曲』(2003)

清々しいくらいエヴァンゲリオンのエピゴーネンで笑ってしまう。TVシリーズの映像に新作シーンを加えて編集した総集編作品ながら、初見の身でもわりと振り落とされずについていける親切設計。とりあえずカップルの感情の起伏さえ適当におさえておけばそれで成立するという割り切り=継ぎ接ぎテクニックの賜物。まあセカイ系なんで。思春期男子の動揺を年上の女性がセックスで鎮めようとする(どうしようもない)展開は何度みても良い。サブヒロイン朝比奈浩子の日記のレイアウトの地雷感。

43.田崎竜太『劇場版 仮面ライダージオウ Over Quartzer』(2019)

時代の落とし前として『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』よりよっぽど上等だろう。シーンとシーンが信念によって繋がれている。というか、ほぼ繋がっていないのでは?と訝しいレベルの飛躍を辞さない。ひたすらに現在に注力する編集が、メタフィクショナルな歴史性を「ジオウ」の物語として収束させるいまここの現前性とぴったりくっついて、主題と形式が完璧な一致を遂げている。

44.鈴木則文『エロ将軍と二十一人の愛妾』(1972)

総肌色面積では他の追随を許さない(あるいは、クローネンバーグの『コズモポリス』がデリーロの原作をより忠実に映像化していれば)鈴木則文らしい過剰さにほっこり。ただ決してお気楽なお話ではなく、エロ将軍が徐々に狂気に蝕まれていく過程の切迫感こそ核心。ズタズタに切り刻まれる家紋は、いかに権威が人心を荒廃させるかの死を賭した告発の形象として、あまりにも映画的な輝きを放つ。

45.大木裕之『エクスタシーの涙 恥淫』(1995)

1シーン1カット1分の全60シーンにより構成される実験作品。音楽はジョン・ゾーン(1シーンにあわせて1分尺の劇伴が全50曲)。自慰と性交にこそ耽るが、熱を感じさせない自称宇宙人家族の奇妙な生態。「ここでオナニーするとUFOが見れるんだ」ビジョナリー・オナニーの馬鹿馬鹿しさはしかし、一笑に付せない真実を一方では探り当てようとしているかのよう。健全と退廃の絶妙なバランス感がクセになる。わりと鈴木清順。

46.中田秀夫『女優霊』(1996)

一例を挙げれば『このテープもってないですか?』もまたその文化的遺伝子を継承する縦構図の強度に接し、やはりクラシックなのだなと(逆向きな)確信。フィルムの物質性にこそ宿る恐怖。映画制作映画ならではの楽しさも嬉しい。WOWOW製作のため封切りがTV放映だったのは知らなんだ。

47.スタン・ブラッケージ『自分自身の眼で見る行為』(1971)

実験映画作家による死体解剖ドキュメンタリー。いってみれば素材が人体の「きまぐれクック」なんだけど、物質としての身体と観る自分の体の間の摩擦に、強く自意識を刺激される。一般的な喪にまつわる振る舞いの一切は画面から欠如し、淡々と業務としての解剖にフォーカスするカメラと編集。素材としての身体の映像的な迫力(例えば、焼死体それ単体の画としての「強さ」)と反スペクタクル的(と一概にまとめていいものか迷う絶妙な)演出志向の拮抗。その綱引きのスリル含めた倫理が伝播する。

48.アナ・ヴァス&トリスタン・ベラ『A FILM, RECLAIMED』(2015)

気候変動問題に対してのてらいのない政治的に正しいメッセージ(数年前のTHE 1975とグレタ・トゥーンベリのコラボソングを思い出してもらえれば)と、単にそのコンテクストを補完するわけではない映画史のフッテージを利用した映像手法の、奇妙な相乗効果。豪雨音声のクリティカルなオンオフが思弁を誘う。監督のvimeoアカウント(https://vimeo.com/127930939)で全編公開されてます。

49.井口昇『デッド寿司』(2012)

俗に言うZ級映画のジャンル内に、どれだけ観客に退屈な時間を過ごさせることができるかを競う加虐的な(そして世界への根源的な憎悪を感じさせる)作品群を発見するのは容易いが、同じZ級映画とカテゴライズされようとも、『デッド寿司』のスタイルはまるでそれらと相容れない。何より、愚直にいまこの瞬間の面白さのためだけに尽くす奉仕的な態度、真摯さが胸を打つ。真に称賛され、リスペクトの対象となるべき作品。

50.ベン・アフレック『AIR/エア』(2023)

企業精神とはつまり開拓精神。そのことを繊細な目配せを経た即興の演説一発で理解させる様に、アメリカ映画としての矜持が詰まっている。せかせかと足で稼ぐように働くマット・デイモンの歩行が緩まる、マイケル・ジョーダン宅でのナラティブのギアチェンジも見事。才能に全ベットする元手は職人的な反復と凝視の末の目利き。楽しいホモソ映画。

51.川尻善昭『獣兵衛忍風帖』(1993)

山田風太郎の忍法帖シリーズに着想を得た、超人忍者たちの熾烈な殺し合い。神がかり的なレイアウト。キレキレの殺陣。いくらなんでも恋愛要素がベタすぎてノイズだけど結局そんなことはどうでもよくなる、単純に脳がいっぱい喜ぶアニメーション。人間爆弾最高!

52.スタン・ブラッケージ『夜への前ぶれ』(1958)

製作者の自死(首吊り)シーンで終幕する前衛映画。かつて結婚の約束を反故にされ絶望したブラッケージは、実際に自らの自殺シーンを撮影し、死後になってその映像を映画に加えてもらうつもりだったらしい。瑞々しい子供の視点を借り受けたかのような抒情的なイメージの連鎖が、無垢とそうであり続けられなかった生についての内省的な思考を喚起する。遊園地のパートが好きです。

53.アンドリュー・ヘイ『ウィークエンド』(2011)

ストリーミングサービスのマイリストで埃をかぶっていたが、田亀源五郎の『ゲイ・カルチャーの未来へ』(良書!)で賛辞にふれたのをきっかけにようやく。しみじみと素晴らしかった。確かなリアリティに基礎付けられた親密な会話とセックス、それだけで映画は成立する。一夜ものならぬニ夜もの、『ビフォア・サンライズ』想起なリリシズム。グレンの女友達の有害ぶりの絶妙さも確度が高い。

54.山本暎一『哀しみのベラドンナ』(1973)

虫プロダクション制作の実験的劇場用アニメーション映画。舞台は中世フランス。性的含意の直裁さに笑ってしまう一方で、サイケでドラッギーな絵面の唯一無二性がすさまじい。陵辱の果て、反動的なエネルギーの過剰が引き金となった狂騒の画面の豊かさ。

55.佐藤寿保『ハードフォーカス 盗聴』(1988)

岡田有希子の自殺にシンパシーを抱くテレクラ嬢という、いまであればトー横界隈の地雷系女子にそのまま仮託されそうな役柄を梁川りおが好演。表面的な記号は移り変わるが、外部性を求める幻想が不安定な女の子を欲望するのは世の常なのかもしれない。佐藤寿保の映画の不穏さはモチーフからしても『回路』なんかを思わせるのだが、存外観られてないのが不満。私のイチオシは登場人物全員狂人の『エキサイティング・エロ 熱い肌』です。

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