日向坂46 四期生「おもてなし会」雑感 観劇経験としての「青春ポルノ」

何も出来ない自分が悔しくて悔しくて、泣いてしまった時があり」「なかなかパフォーマンスが思うように行かなくて悔しい時もあり」「楽しいことだけじゃない、自分自身のことで悩む時もあり」「四期生一同このおもてなし会の練習で様々な壁にぶつかり」「何事も器用にはできなくて何度も挫けそうになるけれど」「この日のために今までどんな辛い時も12人で乗り越え」「"気持ち"の足並み揃えておよそ半年間同じような道を歩んで」「この仲間と一緒なら何処までだって行けると確信し」「全員が不器用ながらもがむしゃらに頑張って」「何度何度も壁にぶつかって、たくさん泣いて。たとえ泥臭くても必死に足掻いてがむしゃらにレッスンを重ねて」、たどり着いた、「この一瞬の幸せのためにどんな辛いことでも乗り越えられてしまうなと思ってしまう程幸せな瞬間」「あれはきっと紛れもなく、青春だったと思います。」*1

演者の、挫折とその克服を経て開催された日向坂46 四期生「おもてなし会」は、つまり「上演」された「青春」でした。しかし、私たち受け手は、そのパフォーマンスとしての「青春」をいかように経験するのでしょう。

C. Thi NguyenとBekka Williamsは、「food porn(フードポルノ)」「closet porn(クローゼットポルノ)」「real estate porn(不動産ポルノ)」などといったセクシュアリティとは概念として切り離された「ポルノ」という語の拡張的な用法に着目し、「○○ポルノとは、○○に実際に関わる際に通常生じるコストを避けつつ、即時の満足を得るために用いられる表象」として、性的でないポルノを含むポルノ一般を定義することを提案しています。

このような定義を受け入れた時、私たち受け手側が四期生「おもてなし会」から得た経験を「青春ポルノ」の受容として言い表すことが可能になります。私たちは、演者たちが回顧するように「壁にぶつか」ったり、「挫けそうにな」ったりせず、それを経験する際に通常支払うべきコストを回避して、「青春」を享受することができます。

観客としての経験を「青春ポルノ」の受容として言い表すことが可能であるとして、そのように言うことがどのような意味をもたらすのか。「おもてなし会」の観劇経験に限らず、ひろく女性アイドルの表現から享受できる質、つまり「女性アイドルカルチャー」という文化的枠組みが提供する受け手の経験に特徴的な質をよりよく記述するために、「青春ポルノ」の概念は有用であると思われます。

三宅香帆は、「乃木坂46を新自由主義的な社会における避難所として捉える見方」(参考ブログ かるぱすのブログ宛てのない」)を提言しています。また中村香住は、「「アイドル論」というと、ともするとアイドル文化を無邪気に称揚してまるごと肯定するような「オタク語り」の文章か、もしくは外部の視点からアイドル産業全体を粗雑に否定するような文章のどちらかに陥りかねない」現状を憂い、「そのどちらにも安易には与せず、アイドルの文化実践として興味深い点は積極的に評価しながら、産業内の問題点にも目を向けて、揺れ動き、葛藤しながらアイドルについて複層的に考えていく文章を集めよう」と、書籍(『アイドルについて葛藤しながら考えてみた』)の企画意図を説明します。これらは、西村紗知が言うように、「愛と消費の癒着は乗り越えられない」ゆえに「その産業のもとで責任ある主体として生きることは本当に可能か (…) ファンの享楽と責任は両立できるか」と換言される「アイドル産業において生きる人間が直面するアポリア」を前にした際の、消費者が取り得る典型的な身振りのバリエーションと言えるでしょう。

「避難」と「葛藤」のいずれの身振りも、「アイドル産業において生きる人間が直面するアポリア」が決して解消し得ないゆえに消費者が抱く「後ろめたさ」に由来するものです。つまりは、「女性アイドルカルチャー」という文化的枠組みが提供する経験に、他の趣味領域にはない特徴的な質が期待されるとすれば、それは「後ろめたい」欲望を吟味することなしに考えられるものではありません。

「ポルノ」というカテゴリーが西洋諸国で19世紀に登場し、「ポルノグラフィーの消費者」が誕生して以来、それら表現に反対する「良識」的な意見の発信は、個人から国家レベルまで勢いを減ずることはないように見受けられますが、しかし、「ポルノ産業はとにかく巨大であり、統計的な形でさえその実態を捉えるのは難しい」現状において、Alan McKeeはサイードの『オリエンタリズム』を参照して、「ポルノグラフィーの消費者」が「他者化」されてきたと主張します。おそらくは、ポルノ消費者としての私たちには、消費主体としての言葉がまだまだ必要なのです。

「他者化」されたポルノ消費者としてのイメージから逸脱し(それは、小泉義之が「俗物的ポルノ的」と否定的に言及するようでは「ない」仕方で)自らの享受した快楽に内在した地点から、経験を複数化すること。性的でないポルノを含むポルノ一般から受け取ることのできる、「即時の満足」の快楽に踏みとどまって、その豊かさを語ること。ことさらに「女性アイドルカルチャー」のフレームに閉じこもらず、「後ろめたい」欲望を蝶番に、ポルノ一般にまつわる表現、言説の蓄積にアクセスすること。

日向坂46 四期生「おもてなし会」の観劇経験を、「青春ポルノ」の受容として言い表すことには、上記のような言説環境を促進する意図があります。

つまり何を最も言いたいのか。常日頃から「ポルノ」を愛好する消費者として、充実した「青春ポルノ」を味合わせてくれた「おもてなし会」の上演はしかし、「ポルノゆえに」感動的なのではなく、ただただ「ポルノとして」感動的なのであって、演者である四期生のメンバーたちへの深い敬意と愛情を、あらためて抱く機会となったのでした。

*1 『セルフ Documentary of 日向坂46』四期生編より、かほりんの発言を参照されたい。「誰もがさ、青春って好きじゃん。そのさ、一番人間が好きな瞬間をさ、ずっと見せていられるようなそういうグループに(なりたい)ね」