乃木坂についての印象2022.3.23〜

みて、書きました。

ナンセンスな比較だけど黒沢清の「Actually…」MVより英勉の「映像研」のほうが断然面白いので、ちゃんと向き合うと収穫が多そう。/両者のフィルモグラフィの批評的な価値付けには雲泥の差があるので実写「映像研」はあまりいい文章に恵まれてない印象。あったら読むので教えて下さい。

NAMIMONOGATARI時の韻踏み夫さんのツイートを思い返す世情だな。/ここ数年のパンデミック下の生活で高度に社会化、道徳化した身体からあられもなく叫ばせるほどの動物的反応を引き出したなら、それを誘ったパフォーマンス、演出を私は素朴に賞賛してしまう。それは現地でも配信でも視聴していない外野に位置しているから。/「コールをすると出演者が悲しむから」「外からのライブの評価が声出しの是非の一点に集約してしまうから」という理由を前提とした批判はある程度正しく、全く本質的でない。隣席が会場が大声を発し熱狂する時、あなたもその容態に焦がれているのではないか。自身の欲望の揺らぎに焦点をあわせるべき。/演者の「声じゃなくて」という呼びかけにより形作られる規範を、観客は過度に内面化する必要はない。それは発信者から受け手という一方通行な関係を強化する。あらゆる秀でた現場は、演者と観客の双方向による働きかけにより成り立つのが理想。/このTLをみているとやはり現場に赴くのはメリットしかないことを痛感させられる。以上の自分の連ツイは所詮はポジショントークにすぎない。ある意味で倫理の前線に身をさらすことで、葛藤を獲得することができる。実際に自分がライブに行っていたら、ここまで歯切れよくツイートすることはできない。/葛藤の含まれないSNSにおける発信は、ほとんど読む価値がない。

良書の紹介記事を書いていたら、なぜか後半一部の中西アルノオタクの批判になってしまいました。/Part1 "「波」創刊55年の歴史で、女性アイドル単独での表紙は初です😳"→Part2  藤圭子、宇多田ヒカル、中西アルノ/とりあえず現時点で頂いたリアクションに対する返答を。/本書から得た知見から今回はテレ東深夜坂道冠三番組視聴経験の相対化をアジりましたが、未熟さを称揚するファンダムの支配的言説へ対抗するための手段は一つに限定されないと思います。/また自分ははっきりと保守側の人間なので未熟さを称揚するファンダムの支配的言説が打倒されることを心の底で望んでいません。現状で十分に幸福です。坂道アイドルのモラトリアム万歳!しかし、対抗言説には活発化してほしい。ここに葛藤があります。/私が「ひなあい」をリアムタイムで視聴して幸せを感じているとき、わざわざ番組のハッシュタグをつけて吐き捨てるように悪口を残すアンチがいます。目障りであると同時に強く魅了されます。その私にない大きな感情を組織して、私の保守性を揺るがす魅惑的な言説を構築してほしい。本書はその助けになると思ったので、紹介に自分の感情をダダ漏れさせてしまいました。

『堕天作戦』とかいう正真正銘の大傑作のタイトルが‥/『牯嶺街少年殺人事件』や『堕天作戦』だと言及の我慢ができない。/池田瑛紗さん、全文章面白い。/相手の好みとか何も考えず漫画をおすすめするとしたら? の質問で2年以上休載中の未完作をオススメするの、ガチチョイスすぎる。/一番最初のタイトル羅列ブログを読んだとき思ったが、池田瑛紗さん、マジで全部のマンガ読んでる。「あーこれ好きな人はそれも好きだよねー」って感性の文脈を決めつけようとした瞬間絶対破綻する。固有名詞が全て繋がっちゃう『花束みたいな恋をした』と対極な、すごく生きたリスト。/池田瑛紗さん、確実に数年後「このマンガがすごい!」の芸能人アンケートに答えてる。

坂道グループの群舞、振付師のバックボーンを学べば歴史的な身体表現の蓄積と接続できるのではと素朴に思うが、私の狭い観測範囲内にはあまりやっている人がいない。みんな音楽番組をみて、「やはり〇〇にはセンターとしての格が‥」みたいなことを言っている。感性だけで勝負してる。/で、そういうとき、カメラワークなどの制作側の演出による効果とメンバー個々のパフォーマンスに宿る成果が往々にして混同された評価が下されている(もちろん適切に切り分けて評価している人も沢山いる。)身も蓋もないことをいえば、センターは画面にいっぱい映るのでそれだけ魅力的にみえるのでは笑/私は舞踏の表現史に全く明るくなく普段そういった演目を観る機会もひどく少ないので、坂道グループのパフォーマンスに価値判断を下すことはできない。だから歴史的視点が欠如したままに、テレビという媒体についての思考を省略し、いまの感性だけでメンバーの取り組みを評している人は、勇気がすごい。/なんだが皮肉っぽくなってしまったが、全くそういう意図はなく、蛮勇はふるえるだけふるったほうがいい。テレビはテキトーになんか言ったりするのにちょうどいいメディアと思う。テキトーな言説は大体箸にも棒にもかからないけど、時折深層にふれたりする。めちゃくちゃ言える環境は重要。一般論です。/「〇〇の歌唱力はグループで随一」「ダンスの技量は〇〇がメンバーの中でも圧倒的」など、個人のパフォーマンスへの賞賛がその集団内に限った相対評価にとどまる様子、それ自体が面白い。外側のモノサシなぞ知らずとも、十分に差異を楽しんでいる。/坂道ドキュメンタリー映画についての言説にしてもそうで、一般ドキュメンタリーとの比較はほぼ検討されず、あくまでアイドルドキュメンタリー同士での優劣の検討に終始しがち。/そのグループしか観ていない未熟な鑑賞者(私です)にも、差異化ゲームに戯れる機会を提供してくれる坂道アイドル。

今年になってから初めて観た坂道関連の映像作品で傑作だと思ったのは、「飛行機雲ができる理由」のMVと久保史緒里個人PV「春、ふたり」、映画『映像研には手を出すな!』です。

「春、ふたり」はクィア・リーディング誘発一直線の窮屈さを、前半の丁寧なカット割りで的確に立ち上げられる生活上のエアポケットな時間=待ち人未だ来たらずの上質なヌケ感が緩和しているからこそ、広がりのある結末を迎えることができている素晴らしい短編。TLのレコメンドに感謝。

30thシングルのタイトルへの反応をみるにつけ、5期生メンバーのキャンセル未遂騒動は、乃木坂に変化を求める層の言説の弱体化に結果的に強く作用してしまったように思う。/あの騒動は良心的な保守派の存在感を覆い隠してしまった。良心的な保守派とは、炎上当事者の5期生メンバーに正負両面で特別な感慨を抱いておらず、「乃木坂らしさ」=伝統には確固たる価値を見出している層。部外者である私にはこの層が乃木坂のファンダムの多数派であるように見受けられる。/しかし騒動の渦中において乃木坂に変化を求める層=革新派の言説の対象はアンチがその多くを占めた。それらの言説は無自覚に保守派の代表としてアンチを設定した。乃木坂に変化を求める層の言説の弱体化は、主にこの設定に起因しているように思う。/第2回5期生お見立て会や10th YEAR BIRTHDAY LIVEにおいて、炎上当事者の5期生メンバーに対し目立つ形でブーイングなどの拒絶のアクションは行為されなかった(らしい)。アンチは金を出さずに口を出すが、良心的な保守派は金を出して口を出さない。作り手がどの層をターゲットに定めるかは明白。/つまり革新派は常に、党派を異にする保守派のなかでも、アンチを除外した良心的な保守派に対し魅力的にアプローチするような言説を構築しなければならない。アンチには「批判」を、良心的な保守派には「説得」=「布教」を試みなければならない。/革新派はいついかなる時であろうと、「批判」と「布教」の言説のモードを適切に使い分けることが求められる。現状のクリエイティブに不満を覚えておらず、「乃木坂らしさ」に価値を確信する層に転向を迫るのは、道徳的な「批判」よりもよっぽど困難であることは、想像に難くない。/この場所にすでに居心地のよさを覚える人々をよりよい場所に誘うならば、説得力のある「布教」が欠かせない。「Actually...」や「絶望の一秒前」にオルタナティブな可能性をみた革新派は、その感慨を共有する言説を構築しなければならない。あなたがみた未来を他人にみせなければ転向はあり得ない。/炎上当事者のパーソナリティがカジュアルに攻撃されるグロテスクな様相を目の当たりにすれば「批判」と「説得」を十分に切り離せないままに言説を構築してしまう気持ちはよく理解できる。メンバーが誹謗中傷の嵐に晒されている時、コンテンツのよさについてだけ語るのは誠実さに欠けるように思われる。/しかしアンチに対して有効な「批判」と良心的な保守派に対して有効な「説得」の無自覚な混同こそが革新派の言説を後退させる。アンチに「説得」は用をなさないし、良心的な保守派に「批判」はいらぬ反感を生む。革新派はターゲットごとに戦略的に言説のモードを峻別し使い分けることが求められる。/「Actually...」や「絶望の一秒前」の価値を説得力のある形で説くことこそが、良心的な保守派への働きかけとして強く作用し、将来的にクリエイティブの変化に繋がるかもしれない。その際、道徳や倫理による「批判」は混在されるべきでない。/オタクはただ自分がどうしたら気持ちよくなれるかに誠実であるべきだ。これは「批判」している暇があったらよさを語れとか、そんな単純な話ではない。二つの言説のモードはトレードオフではない。その両立と使い分けこそが、革新派としての言説の強化に不可欠である。/いずれくる日向坂の炎上に備えた自戒として書いた。/継続的に不出来なコンテンツを提供するプロダクトの情報を何故オタクは毎日追いかけるのか、その欲望に向き合うことから始めないと、私は意味がないように思う。クオリティ第一主義とは相容れない態度がその行為を担保しているはず。/それなのにコンテンツの出来不出来の判断を元手に言説を構築してしまうからつまらなくなる。とっくに見放してもおかしくないプロダクトに執着するのだとしたら、それは何故かを問わなければならない。/坂道グループのコンテンツのダサさを都度指摘する批判は、結局のところ指摘者自らの習慣を相対化することがない場合に限っては、ポーズとしての客観性にとどまってほとんど意味をなさない。快楽の欠如した習慣はあり得ず、ならばその快楽の源泉を探るべき。/そういう意味で、坂道グループの不出来なコンテンツの恩恵を最も受けているのは批判者かもしれない。批判により客観性を錯覚することで、オタクとしての延命を(意識的にか無意識的にか)図ろうとしているのかも。その姿勢はマッチポンプだが悪いことではないし、批判されるべきでもない。

丸山健志『悲しみの忘れ方 Documentary of 乃木坂46』面白かった。一日の出来事を序盤と終盤に分け、"普通の女の子"とアイドルが分割されることの両義性を説得力のある画により提示していていい。YUI「fight」合唱の大団円を経てとってつけたようなプロローグで幕引きするトンチキな構成も好み。/母親たちの言葉が(佐藤真『花子』に収められた、花子の姉とされる声が含む豊かな揺らぎなどを念頭におくと)ナレーションの再構成によりベタなメッセージに矮小化されているのは残念。そこが映画を凡庸な地平に留まらせている。/"いやみんな怒ってたと思いますよ 怒ってない子居たのかな"スキャンダルについての西野さんの発言が一番よかった。「恋愛禁止」は不文律であるが故に「空気」によってしか機能せず、ただしそれは一人のメンバーに総意を代弁させる動機を用意するほどに強力であること。/学級会的な吊し上げのしょうもなさは、巷間に溢れるしょうもなさと地続きで、その手触りがうれしい。これは『3年目のデビュー』で井口さんがメンバーに謝るシーンもそうだが、形式的でしかあり得ない謝罪の場の緊張はつまりこの上なく滑稽で、しかしその滑稽さがプロダクトを持続させている。/堀さんパートのナレーションは「失恋した女性は髪を切る」みたいに陳腐で凡庸な女性像のイメージの流用としか思えず。狙って書いた文言なら寒いが、実親から発せられたものと考えるとちょっと面白い。いずれにせよ、劇中で最も母親の言葉が単純化され、ないがしろにされていると感じた部分。

Netflixの真面目なドキュメンタリーがドラマパートで『脳内ポイズンベリー』のナラティブを採用していて笑ったのを思い出すやつだ。

黒清の「Actually...」MVがただの前フリになってるの強い。/夏服だし最後に映る黒板の日付は7月7日だし、進学校特有のプレッシャーでピリついてたのが、仲良くなって夏休み前の期待に転化する感じかな。/夏休み前の期待と5期生のこれからへの期待を匂わせ程度に重ね合わせるの、スマートでいいですね。

私は5期生MVを観たとき明確に黒沢清「Actually...」 MVが(質的なうんぬんでなく内容として)踏み越えられていると感じたわけなのだが。

5期生MVの前フリとなる不和の描写として、(菅原に対して)なかなか話しかけなれない井上、消しゴムを拾わない川﨑、登校中に後ろから無言で追い抜く五百城、冨里、そして無言ですれ違う中西が描写されるわけだが、ここで中西に「すれ違い」のアクションが10人の中からあてがわれているのは重要。
わざわざいうのも恥ずかしいけどこれは黒沢清「Actually...」MVにおける、齋藤、山下と中西が無言ですれ違うシーンによる「孤高さ」の演出への目配せ(及び否定とまで言ってしまいたいが一応留保)であり、バンドエイドMVではもちろん最終的に菅原と横並びで歩みを進めることになる。

そして「すれ違い」のアクションを中西にあてがうことでなさせる二通りの作り側の解釈として、バンドエイドMVのほうが現時点で現実に即しているように思われる。お見立て会時点で"未だかつてない歌声"として異分子たる活躍を期待された中西は、「新・乃木坂スター誕生!」のメイキングドキュメンタリーにおいてその歌声に課されるプレッシャーに対しての等身大の不安を吐露するし、smashなんかを観てるとフツーに5期生の輪の中に入って楽しくやっている(小川さんの申告制反抗期の対象が一ノ瀬さんと中西さんなのアツくないですか?)。現実でも表象でも、中西さんは異分子としてではなく、乃木坂5期生の一構成員として活動しており、また外部からそう活動するように望まれている風にも見受けられる現状なのだが、そうすると「孤高さ」を部分的に志向した黒沢清「Actually...」MVの存在が完全に宙に浮いてしまっている。/つまり何が言いたいかというと、連綿と続く乃木坂(坂道?)表象のコンテクストにおいて、今一番「何にもなっていないし、将来的にも何にもならなそう」な筆頭候補は黒沢清「Actually...」MVなのでは、ということです。

"池田「オズワルドの伊藤さんにブログのことを褒めていただけたこと!伊藤さんの卒論より長いらしいです私のブログ」"← 池田瑛紗さんが自分のブログを卒論って言い出したのは多分このエピソード由来よね。

今年読んだ坂道関連の文章の中でも一番面白かった。舞台『桜文』に関して、主演俳優がアイドルであるゆえの感想が全く欠如した記述だからこそ宿る、乃木坂の「らしさ」にまつわる主張の説得力。/"柔らかな共同性から硬質な共同体への移行こそが、昨今の乃木坂の「らしさ」がたどった変遷であったのではないだろうか。/一方でそれはファンの苛烈な反応の源泉となりながら、他方でメンバーが「外」仕事へと取り組む際に、それとの差異化を実践するのではなく内側へと還元しうるような立脚点を構築した。"めちゃめちゃいい整理。とてもありがたい。/"不明瞭であるがゆえに、「外」仕事との差異化や同一化の実践の内に「らしさ」が見出される(=舞台に立つ必然性が見出される)といった見方は後退しており、彼女たちが何者であるかというのは、第一の問いではなくなっている"という現状の整理に呼応した

"久保さんの演技がすごく自然で、演技もできて、歌もダンスもお話も凄い方だな〜と見終わって改めて思いました 見ている間はそんなことも忘れて、お話を楽しんじゃったのですが、、笑笑"という、五百城さんの『左様なら今晩は』の感想。/"彼女たちが何者であるかというのは、第一の問いではなくなっている"ゆえに、鑑賞中、久保史緒里のアイドルとしてのアイデンティティは忘却され、一演者として経験される。

同じブログのこの記事とか、事前に読んでたら、乃木坂のドキュメンタリー観た時、もっとツイートすること変わってたな(いまようやく読んだ。)/『悲しみの忘れ方』のナレーションの貧しさについて、かつてのツイートでは佐藤真の『花子』を引き合いに出したけど、同監督の『SELF AND OTHERS』の方がより適切だったなと反省が生まれた。

"私が乃木坂で活動できることがとても幸せだから、私の行動する全てのことが乃木坂のためになりたいというわがままを頑張って叶えたいです" 加入して1年近く経つと、もはや組織に取り込まれるどころか、滅私奉公の精神にまで到達してる。/あらためて乃木坂5期生、グループを拡張することはあっても、相対化することはなさそう。日向坂の4期生も、初めから既にそうだった。

"こんなに素敵な環境で今を生きれる幸せ"、"乃木坂46という素敵な場所"ずっと乃木坂という場所についての話をしているし、その環境に属すことでこそ肯定される自我の話をしている。/自我とグループの境目が、世代を経ることでより曖昧になっていっているような感触。その場所から身を引き剥がすことによって生じる「卒業」のエモーションもまた、より強烈に感受されるようになるのだろうか。予想される典型的反復の5期生による再演。

"私は今の乃木坂46は少女から大人の女性への過渡期にいるみたいなイメージを持ってる" 「乃木坂らしさ」の解釈として、典型的ゆえにクリティカル。5期生は、その振る舞いも思想も坂道ブランドの結晶としてあり、逸脱を期待させない。/加入当初は異分子として乃木坂の相対化を期待されていた5期生まわりの広告的言辞や表象は、強烈なバックラッシュを被ったことで軌道修正を余儀なくされたわけだが、あくまで結果だけでいえば、本人たちの「パーソナリティ」にそうかたちに落ち着いたのではないか。/この軌道修正は、「Actually...」MV(長尺版)と「バンドエイド剥がすような別れ方」MVで反復され、差異が強調された「すれ違い」のアクションに端的に現れているというのが自分の見解。

『アイドルについて葛藤しながら考えてみた』の第9章「もしもアイドルを観ることが賭博のようなものだとしたら」(松本友也)は、今年の乃木坂46時間TVにおける久保さんの弾き語りチャレンジ(特に、youtubeで公開されている動画では6:10あたりからの演奏中断場面)に心動かされた人が読むと、感性的によく理解できると思った。この文章でアイドルの"「アマチュア性」"の定義として持ち込まれている、"「失敗可能性(うまくいかないかもしれなさ)」"(それは"暗に期待されて"すらいる)が、まさにこの久保さんの企画にはありありと表れている。/(そのことで喚起される情動に乗るかか乗らないかはまた別として)久保さんの今年の乃木坂46時間TVにおける弾き語りには、その演奏中に直面した困難こそによって、「アイドル性」が凝縮されるかたちになったのかもしれない。