黒沢清監督の「Actually...」MVをみた。

乃木坂と黒沢清についてそれぞれのオタクからすると軽蔑されかねないくらいの知識しか持ち得てない自分ですが、ライトな関心と関心の領域が偶然重なったので中西アルノセンターの「Actually...」MVを観ました。面白かったです。以下雑感。観た後の人を読み手と想定して書かれた文章です。

まず"古いスタジオ"における齋藤、中西の対話の動線設計がよかったです。スタジオの出口へと向かう齋藤の動きを起点とした、ロの字型の一辺を移動するのにあわせて交互に台詞を交換するやりとりは、そのアクションによって会話に宿る不穏なムードを高めています。センター中西アルノの映像内初の単体バストショットが、"そんなことも、あるのかなって"という地口を思わせる台詞のさいに選択されているのには反面の茶目っ気を感じますね。やがて二人は椅子に腰かけ正対し、後述しますが、このMVにおいてとりわけ重要と思われる会話を交わしはじめます(厳密には、腰掛けるというアクションを用意したやりとりも含めて重要と考えています)。シーンは前後しますが冒頭のデカ窓を枠とした廊下における光量、それにより際立つ陰影も、黒沢の画面としかいいようのないもので嬉しかったです。

テクストに対しての雑感に移ります。シナリオとして一番に注目すべきなのは、明示的な齋藤飛鳥の嘘でしょう。山下と中西の間を行き来するメッセンジャーと化した齋藤は、結果としてそれぞれに嘘をつくこととなり、その嘘は明確に鑑賞者に示されています。中西に対しては、誰かに閉じ込められたのではないかという問いに、山下がそれをしたことを知りながらも"それはありえない"と返答し、山下に対しては、明らかに何かを察しているような様子の中西との対話の内容のほとんどを伏せ、"元気"で屈託のない"素直な返事"をした様子だけを報告します。ここで前提としたいのは、齋藤の演技、つまりは発声が全編通して一定のトーンにおさまるように演出がなされていることです。齋藤はこのMVにおいてほとんどの場面で感情を露わにしません。嘘をつくことの逡巡を含むような言い淀みも皆無です。齋藤の発声は、基本的にはストレートなものとして受け取ることができます。しかし、そこに嘘が混在するとどうなるか。終盤の山下とのやりとりにおける発言を引きます。

わたしたちには仲間がいるじゃない。何十年もたってみんなすっかりおばあさんになったとき、たくさん思い出話をしましょう。あんなこともあったね、こんなこともあったね、でも楽しかったねって。まだまだ先のことだけど、想像するとちょっとウキウキするでしょう。だからこれでいいの。いいことにするの。

MVのテーマをほのめかすような、全体のまとめ感のある台詞です。"何十年もたってみんなすっかりおばあさんになったとき、たくさん思い出話をしましょう"という部分には一般的なアイドルオタクの願望が素直に投影されているようにも思えます(女性アイドルは、それを一生の仕事とすることの難しい職業です。いずれ誰しもが卒業しグループを去ることは、今のところ覆すことの難しい未来であり、それゆえオタクはこの短い活動期間における彼女たちの同僚との出会いが、せめて未来でも有効に作用することを勝手に望みます)。しかし、これを素直に一意として受け取ることは作劇上できません。嘘のレイヤーがここではすでに敷かれているからです。確認します。齋藤の一定のトーンにおさまった発声は、会話の相手に、嘘を嘘と悟らせることはありません。ただかわりに、鑑賞者にとって全ての齋藤の発言の本当らしさが揺らぐこととなります。齋藤の発声は揺らぎません。ただし意味が揺らぎます。この揺らぎこそがこのテクストのもっとも核心をなす部分です。

中西の"古いスタジオ"における発言(古いなにかが体にまつわりつくことの嫌悪感の表明、など)や、山下の中西への悪意(と記すのはやや行きすぎかもしれないが)に基づく振る舞いを観ていると、両者の対立を伝統と革新の対立に敷衍したくなる人もいるでしょうが、そのような安易な解釈ははっきりと否定されるべきでしょう。そもそも中西が嫌悪感を表明する"古いスタジオ"も山下にとっての良い場所ではあり得ず(でなければ誘い込もうとし、あまつさえ閉じ込めたりなどしません)あの場が、古さに基づくものであろうと、乃木坂の積み上げてきた歴史などの直喩として設定されたものでないのは明らかです。なのでここでは単に中西的なものと山下的なものとの対立とだけ書きます。中西的なものと山下的なものが対立するシナリオにおいて、齋藤はどのような振る舞いをするのか。ここで先にふれた自分が重要と思う中西、齋藤の会話の場面に移ります。

先の文章で齋藤はこのMVでほとんど感情を露わにしないと書きましたが、そんな齋藤の発声が感情に基づいて揺らぐ劇中で唯一といっていいやりとりがあります。その会話は、通俗的なセンター論のようなものを中西が齋藤に問いかけるかたちで口火を切りました。具体的にいえば、"私はどちらかというと、大勢のなかにいるときこそひとりぼっちを感じるタイプです。齋藤さんもそうでしょう"という台詞をきっかけにしたやりとりです。「大勢のなかでこそひとりぼっち」という自己認識が醸し出すそのひとの雰囲気は、つまりそれこそがセンターの資質であるとてらいもなく言明する語り手には困らないほど、一般的に消費されてきたイメージです。中西はそんなかりそめのセンター的資質を、わたしとあなたは共有しているのではないかと問いかけます。齋藤はこの問いに対し、はじめて感情的に、演技のレベルで動揺を見せます。以降のやりとりにおいてはその内容も重要ですが、それ以上に注目しなければならないのは、齋藤の発声のトーンの揺らぎです。ここにおいて齋藤は、一定のトーンに回収されることのない、感情の振り幅、その揺らぎを含んだ演技を実行します。つまり中西的なものと山下的なものの対立において、齋藤は中西的なものの前で心理的な動揺を見せるよう、この映像は演出されています。

しかしその動揺が、中西的なものと山下的なものの対立において、中西的なものの優越を必ずしも保証するわけではありません。最後には齋藤は山下と肩を並べ、中西とすれ違うこととなります。対立の優劣に決定を示さない揺らぎという態度を貫徹することこそがこのMVの占める位置と思われます。齋藤が一身に体現する二種類の揺らぎ、感情の揺らぎと意味の揺らぎは、もちろんファンダムの動揺を一面では反映しているでしょう。活動10周年を迎え新期生も加入したグループの転換点、そんな激動の環境の渦中で、演者やそれを取り巻く全てのひとりひとりの中で拡大する波紋。揺らぐ感情は根拠として機能せず、志向性を持たない。曖昧さにとどまる態度を前提として「Actually...」ドラマMVは捉えられるべきだと思います。しかし、まさか現実において不安という一意に侵された波紋が、これほどまで大きな広がりをみせることは、関係者一同、誰も想像していなかったに違いありません。ふと魔がさし、扉を閉ざすことはあっても、まさかそれを塞ぎさえするとは。あの山下の過剰といっていい怯えからくるアクションには、確かにフィクションの飛躍があるように見受けられましたが、現実はさらに過酷な状況を用意してしまいました。

終盤にはもっと"333ノテッペンカラトビウツレ"をやってほしいと、贅沢がすぎる感想を抱いています。