【やん(skd7)】訴訟の娯楽化(エンタメ化)について【仁藤夢乃(Colabo)】
仁藤夢乃がやんという人物を訴えた。それに対して、ある人物はその訴訟を「エンタメ化」して欲しいと言った。
一般的には、訴訟は娯楽でないが、百姓は訴訟を娯楽と感じているように見える。以下では、俺は訴訟の娯楽化の問題について述べる。裁判や訴訟までも娯楽化、醜聞化、官能化しそうである。
訴訟の娯楽化
儒教系統の認識
(1)大和民族は訴訟を娯楽化する。
そして、大和民族はその娯楽を一方的に消費しようとする。彼らにとって、訴訟や審判は自分たちの社会を言葉で形成する何かでなく、「消費する娯楽」である。
上記の投稿の傾向は一般的である。大和民族の百姓はやんと仁藤が訴訟で争うところを単純に見たいだけである。彼らは自分たちの社会を彼ら自身で作るつもりがない。彼らにとって、やんと仁藤の裁判はローマの剣闘士や格闘技のように、消費する娯楽である。
上記でも書かれているように、大和民族の百姓はやんと仁藤の裁判の内容や審判の在り方に自体に興味を持っていない。彼らはやんと仁藤がただただ喧嘩して、その喧嘩を消費することを目的としている。
上記の人物の投稿が典型的であり、彼はやんと仁藤を喧嘩させたいのだろう。彼はやんの発言の正当性や仁藤の訴えの正当性、そしてColaboの活動の正当性には興味がない。他人が他人を叩いてるところを見たいだけである。
要するに、いじめや喧嘩、戦争にお金を出して、他人が殴られているところ、殺されているところを見たいだけである。非常に卑しい心理。
社会システムの設計に関する寄付は「ここから」。 君の寄付をありがとう!とても嬉しい!