千葉県浦安市の「まちづくり基本条例」自治基本条例案と折本龍則(orimoto777)〜武蔵野市の松下玲子と外国人参政権〜
俺は上記の条例を見た後、俺は武蔵野市の松下玲子と外国人参政権を連想した。以下では、俺は「まちづくり基本条例」自治基本条例案に関する大和民族の民族的な問題をメタ的に提示するつもりである。
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俺の違和感
まず始めに、俺は上記の速報に対する俺の違和感を提示する。その違和感には、日本国の統治者は誰のために働いているのか疑問に思うことである。彼らはまるで外国人のために働いているように見える。この現象は上記の速報だけでなく、日本国の統治者にも言える。
誰のための市であるのか?
俺の印象 大和民族の統治者は自己の民のためでなく、外国人のために働いているように見える。
大和民族の統治者は自己の民のためでなく、外国人のために働いているように見える。日本国の統治者の仕事は自己の民の統治であり、外国人を喜ばすことでない。しかし、彼らは外国人を喜ばすために働いているように見える。
言い換えると、彼らは外国人に憑依して、外国人の視点で話している。例えば、西側白人と結婚した大和民族の雌は白人の夫の視点を獲得して、イタコ芸を実行して、白人の夫の霊言やお告げを繰り出す。ロシアとウクライナの戦争では、彼らはロシアやウクライナに憑依して、ロシア視点やウクライナ視点から、ロシアやウクライナを批判し始める。そこには、自己の日本国の視点が存在しない。
今回の条例に対する俺の違和感は上記の呟きそれ自体である。浦安市も武蔵野市も誰のために働いているのかわからない。彼らは自己の市民(浦安市民)のためでなく、非自己の市民のために働いているように見える。彼らは自己の国民のためでなく、サイモンウィーゼンタルセンターのために働いているように見える。歴史的には、彼らは自己の藩における家来のためでなく、キリシタン大名や奴隷貿易に関係したポルトガル商人やスペイン人商人のために働いているように見える。
上記では、米山隆一は中山泰秀が自己の政府よりもサイモンウィーゼンタルセンターを優先するのはおかしいと指摘した。俺はこの指摘に賛成する。同時に、俺はこの違和感は浦安市や武蔵野市に対する違和感に一致する。これらの市もまた自己の民よりも非自己の市民を優先しているように見える。彼らは自己の市民(浦安市民や武蔵野市民)のためでなく、非自己の市民のために働いている。
俺の印象では、大和民族の統治者は統治が何であるのかを認識することができない。そのため、彼らは店員が客(外国人)を喜ばすような感覚で統治を実行する。または、未開の民が客におもてなしとして、彼ら自身の娘を抱かせるようなノリで統治を実行している。
同胞を外国人に売る
俺の印象 大和民族の統治者は自己の民を外国人を喜ばせるために売却したり、生贄に捧げたりする。
歴史的には、キリシタン大名は大和民族、自己の藩における民をポルトガル商人やスペイン人商人に奴隷として売却した。なぜなら、彼らは外国人が喜ぶ=善と感じて、外国人を喜ばすために、同胞や自己の民を奴隷として売却した。
武蔵野市や浦安市を見ると、俺はキリシタン大名を連想する。大和民族の統治者は同胞を外国人に売ることを「先進的」や「西側白人的」であると感じているように見える。実際、外国人参政権も投票権も「イケてる雰囲気」を醸し出している。この「イケてる雰囲気」こそが奴隷貿易に関係していただろう。
加えて、大和民族の統治者は自己の民を外国人の生贄に捧げて、彼らの不安を解消して、安心感を獲得しようとする。その不安とは、「外国人との対峙」である。日本神話では、未開の民は八岐大蛇との対峙を恐れて、彼らは彼ら自身の娘を八岐大蛇の生贄として捧げたらしい。
上記の呟きは示唆的である。大和民族の統治者が「外国人との対峙」からくる不安を解消するための方法が同胞を外国人に売り、同胞を生贄に捧げることである。彼らは八岐大蛇の気分がよくなることにホッと安心して、彼らは彼ら自身の行為が善であったと感じるようになる。
俺の違和感2
俺は上記の速報に対する俺の違和感2を提示する。その違和感には、自己の社会を自分自身で作る意志の欠如と応答義務の欠如がある。この現象もまた上記の速報だけでなく、日本国の統治者にも言える。
意志の欠如
俺の印象 大和民族は自己の社会を彼ら自身で作る意志を持っていない。
俺の印象では、大和民族は彼ら自身の社会を外国人に作ってもらって、その恩恵のみを受けようとしているように見える。だからこそ、彼らは自己の社会を彼ら自身で作る権利を外国人に平気で渡そうとする。加えて、彼らは彼らの社会の後始末や後片付け、そして応答義務すら外国人にやってもらおうとしているように見える。
つまり、大和民族は税金だけ払って、彼らの社会を誰かに作ってもらおうとしているように見える。この種の性質はオタクの性質に似ている。彼らもまた他人に彼らの社会を作ってもらって、彼らはその恩恵のみを受けようとする。オタクは受験勉強に熱中するが、彼らのクラスを作ろうとしない。学者も大学の自治を掲げながら、彼らの学術社会を彼ら自身で作ろうとしていない。彼らは政府にやってもらうことを暗に期待している。
実際、学者の多くは外国人参政権や投票権に賛成しているように見える。そして、彼らはその賛成が左翼的であり、リベラル的であり、先進的であると強く思い込んでいるように見える。しかし、実際には、彼ら自身は自己の社会を彼ら自身で作る意志を持っていないので、外国人参政権が与えられるとしても、彼らにとってそれは他人事であることである。
なぜなら、大和民族の学者にとって、日本国も日本社会も自己でなく、非自己である。そして、彼らは日本国にも日本社会にも所属認識すら持っていないように見える。より悪くいうと、大和民族は自己のx系統の国家それ自体を認識していない。大和民族は自己のx系統の国家それ自体を認識していない。そして、彼らはその状態がグローバルで先進的であると誤認識している。その状態は未開であり、野生である。
応答義務
俺の印象 大和民族は自己の上位の統治者や命令者を自己の行為の後始末をつけてくれる存在であると感じてる。
武蔵野市も浦安市も外国人参政権に類似した権利を外国人へと気軽に与えようとしているように見える。俺の印象では、彼らは彼らの行為の応答義務や後片付けを彼ら自身で実行するつもりがないので、彼らは外国人参政権を外国人へと気軽に与える。
なぜなら、彼らはたとえ深刻な問題が生じるとしても、日本国の上位の統治者が彼らの行為の応答義務や後片付けをつけてくれると感じているように見える。口語的には、彼らは自己の上位の統治者や命令者が「好きにやりなさい。責任は
俺がとる」と言ってくれると感じているように見える。そこには、命令系統や自治、そして応答義務や後片付けの義務は存在しない。
上記の発言が典型的である。牧野は国家の統治者が専門家のいうことを聞くと勘違いしているように見える。しかし、実際には、専門家は統治者に統治される側である。彼は国家の統治者が専門家のいうことを聞いて失敗すると、彼はその統治者が行為の後始末や応答義務を果たすべきであると勘違いているように見える。
彼は統治者に子供と大人の関係や介護される老人と介護者の関係を求めているように見える。たとえ子供が何かをやるとしても、その行為の応答義務は大人にある。同様に、たとえ浦安市が何かをやるとしても、その行為の応答義務は政府にある。彼らはこのように感じているように見える。だからこそ、彼らは無責任に見えて、子供のようにどこか他人事である。なぜなら、彼らは彼らの政府が彼らのケツを拭いてくれると思っている。彼らは自治を実行する意志を持っていないように見える。
俺の違和感3
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