モードの集合としての生命
生命という現象について、システム工学的な視点から捉えることで、その性質や特性の理解を深めたいと私は考えています。
一般に、生物の本質を掘り下げて考える時には、化学物質の集合という面に着目されることが多いと思います。その他の側面として、私は生物の体内や生物と環境の相互作用に見られるフィードバックループの側面について考えてきました。また、生物の基本単位である細胞が利用している物理構造についても着目してきました。
無生物においても存在し得る、化学物質とその化学反応の連鎖、フィードバックループの束、物理構造の組合せが、生命を形作っているという視点から、私は生命の起源について仮説を立てて考えています。
この記事では、これらとは別の観点として、新たにモードと条件分岐という視点から生命現象を考えていきます。
■条件分岐とモード
生物は様々なモードを持っています。
起きている時と、寝ている時。平静な時と、怒っている時、楽しんでいる時、恐怖している時。
これらのモードは、その境界はある程度は緩やかですが、しかし、線形に段階的に遷移するというよりも、はっきりと別々のものであると区別できる状態です。
これは、滑らかな算術的な計算式で表現できる連続的な遷移ではなく、プログラムにおける条件分岐のような離散的な分岐を必要とします。
川に流れる物に例えると、大河のような川の真ん中と右岸寄りと左岸寄りを移動しながら流れている場合が連続的な遷移です。離散的な分岐は、川自体が複数の川に分岐しているようなものです。分岐点を越えたら、はっきりと他の川とは違う流れに乗る事になります。
■生命の起源におけるモードの実現と効果
離散的な分岐としてのモードによって、生命活動の振る舞いが変わります。上手く状況に合わせたモードに遷移することができれば、生命活動を効率化したり合理化することができます。
このためには、状況を感知する能力、状況に応じたモードに切り替える能力、モードに沿った振る舞いをする能力が必要です。
生物誕生以前の生命の起源においては、化学物質が化学反応を起こして、それが進化していき、最終的には最初の生物となる単細胞生物が生み出されたという仮説が考えられています。この時、無生物であった化学物質とその反応には、進化の初期の頃には、自らの状況を感知し、モードを切り替える能力はなかったでしょう。
しかし、外界の変化が化学変化に影響を与え、モードの切り替えのような現象は起き得たと思います。例えば、昼と夜の切り替わり、それに伴って太陽光がなくなり温度が下がる事で、化学反応に影響を与えます。昼に活性化して夜には非活性になる化学反応もあれば、その逆もあったでしょう。これは、生物のモードの切り替えに似ています。
このようなモードの切り替えの作用で、活性化と非活性化の関係が異なるような化学反応を起こすような複数の化学物質と化学反応が、互いにプラスの影響を与え合う関係になることもあり得ます。モードによって活性状態と非活性状態を別々に切り替えながら、相補的なプラスの影響を与え合う事で、全体として様々な状況へロバストに対応できるようなシステムになり得ます。
初めは昼夜や季節の移り変わり、天気の変化などに応じて、温度やエネルギー供給などの化学反応が起きる際の環境の変化が直接モードの切り替えの作用を持っていたと考えられます。それがやがて、状況の変化を感知し、状況に応じてモードを切り替える仕組みを獲得したと考えられます。これにより、より適切なタイミングや状況でモードを切り替えることができるようになり、よりロバストな対応ができる能力を獲得する事が出来たのだと思います。
また、外界の変化によるモードの切り替えだけでなく、例えば空腹と満腹、平常時と体調不良時のように、内部の状態に応じてもモードは切り替えられるようになっていきます。
このように、モード切替の仕掛けの内製化と、複数の化学反応の仕組みが束になる事が、生命の起源における化学進化の過程において進行したと考える事が出来ます。
■離散的なモードを持つ構造
このように考えると、完成した生物以前の段階でも、化学物質とその化学反応のシステムは、離散的に切り替わるモードを持っていたと考える事ができます。そして、システムの中のモードの切り替わりは、恐らくかなり多数の種類を持ち、それに伴って多数の分岐を持っていると考えられます。そこには、多数の条件分岐があることになります。
これは、人工知能に使われるニューラルネットワークにおいて、活性化関数による条件分岐が多数存在することに類似しています。その意味で、ニューラルネットワークも多数の離散的なモードを持つシステムと言えます。
この点は、生物と知能の興味深い類似点です。
ニューラルネットワークは条件分岐の役割を持つ活性化関数が無ければ、単なる無数の四則演算の集合体に過ぎません。活性化関数による分岐が存在することで、ニューラルネットワークが知性を獲得しているのであれば、離散的なモードの切り替えの集合が、知性の源の一つであるという言い方もできるでしょう。
そして、同じことが生命にも言えることになります。生物も、モードの切り替えがなければ、化学物質と化学反応の集合体です。そこに離散的なモードの切り替えが加わる事が、生命になるために必要な事なのかもしれません。そうだとすれば、離散的なモードの切り替えの集合体は、生命の源の一つでもあるという事になります。
■社会における個人のモード
人は生物であり、ニューラルネットワークのモデルと類似した神経網による知能を持ちますので、その観点から離散的なモードを持つと言えます。
一方で、その次元とはまた別に、個人は離散的なモードの切り替えを行いながら社会活動を行っています。
例えば、家族といる時のモード、会社では働いている時のモード、友人といる時のモード、実家の両親とあっている時のモードなど、様々なモードを、私たちは使い分けています。
言葉遣いや態度や振る舞い、そして性格や記憶さえも、私たちはモードに紐付けて切り替えています。久しぶりに小学校の頃の友人と会うと、普段使わない言葉のなまりが出たり、滅多に思い出すことのない思い出がすぐに記憶に蘇るでしょう。
これは、化学物質と化学反応の集合である生物、ニューロンの集合である知能、そして、個人の集合である社会が、離散的なモードの切り替えの集合体という側面を持つという事です。
そして、離散的なモードの切り替えの集合体は、生命と知性だけでなく、社会性の源の一つであるのかもしれません。
■社会の観察
もし、社会性においても離散的なモードが大きな意味を持ち、本質的に生命や知性と共通の意味を持っているのなら、幸運としか言えません。
なぜなら、生命や知性の中の様子は観察が難しく専門知識を要しますが、社会であれば観察は比較的容易であり、特別な知識がなくても理解することができます。
そして、社会を観察して得られた知見や洞察が、生命や知性にも適用できる可能性があります。
興味深いことに、子供のうちはこうした切り替えがあまりなく、誰と会っても同じような言葉遣いをし、同じ性格でいます。大人になるに従って、会う人によってモードを使い分けることができるようになっていきます。やがて無意識のうちにこれらのモードを使い分ける事が出来るようになります。
この観察から、成熟度が進むことで、モードや分岐が増えていき、高度化していくと考えられるでしょう。
この他、アフォーダンスという考え方を適用し、モードは状況から引き出されるという考え方もできそうです。私たちはモードの切り替えを無意識に行っています。これはドアノブを見ると無意識に回すという動きが想起されるといったアフォーダンスの考え方と似ています。
このように、社会における個人の離散的なモードの切り替えと、それが集団に及ぼす効果を考えていくことで、モードや条件分岐の集合が社会、生命、知性に対して持つ意味がわかるようになるかもしれません。
■マクロのモードとミクロのモード
社会にしても、生物にしても、知能にしても、離散的なモードを条件分岐と考えると、全体を通したマクロ的なモードの分岐と、個々の要素におけるミクロのモードの分岐があることに気がつきます。
マクロのモードは、全体的なモード切替が起きます。社会で言えば、平常時と災害時であるとか、好景気と不景気のようなものです。あるいは、不満が爆発して暴動が起きるようなモードもあります。
災害のようなケースでは、完全に外部の変化に起因し、そこから広範な影響を受けて全体的にモード切替えが行われます。高度な情報伝達網や管理機構が備わっていれば、一部の被害であってもそれをサポートするべく社会全体でのモードの切り替えが速やかに行われます。
不景気のようなケースでは、社会内部の変化と、その影響を受けて部分的にモード切替えが発生し、それが自己強化的なフィードバックループを形成して広がっていくことで、全体に波及します。
暴動の場合は、感情というモードの切替えが、社会の中で人から人へと連鎖的にコピーされるような形で広がっていきます。
このように、マクロのモード切替えは、ミクロにおけるモード切替えの全体への波及に基づきます。
■生物におけるマクロのモード切替
私の理解では、生物におけるマクロなモード切替は感情や生理現象のようなものとして現れます。体内に流れるホルモンが変化することで、全身のモードが切り替わります。ここで言う全身には脳も含まれます。
脳が外界の情報を知覚することに起因して怒りや恐怖のような感情が湧き上がり、それによる全身のモード切替が起きる場合もあります。また、空腹やケガや内臓の不調など身体的なトラブルや、睡眠その他の周期的な生理現象に起因して全身のモード切替が起きる場合もあります。
外界の知覚により脳の感情が発端になった場合でも、トラブルや生理現象により身体が発端になった場合でも、モード切替は脳の感情と身体の生理現象の両方に影響を及ぼします。腹痛があれば気分が沈んだりイライラしたりしますし、悲しみやストレスで胃に穴が開くこともあります。
■知能におけるマクロのモード切替
感情の他に、先ほど挙げたように、私たちの脳はコミュニケーションしている集団に応じてモードを切り替えて、言葉遣いや性格や記憶を変化させます。こうした複数のキャラクターを、私たちは切り替えながら使いこなすことができますが、同時に2つのキャラクターを使う事はできないという点で、マクロ的なモード変更と言えます。
感情は生物におけるマクロのモード切替という位置づけにしましたが、こうしたキャラクターの切り替えは、知能におけるマクロのモード切替と位置付けることにします。ここでの知能は、特に社会に適応するための知能、と言えるでしょう。
■ミクロのモードの世界
マクロのモード切替えは、ミクロのモード切替えが全体に広がっていくことで生じるという話をしました。一方で、全てのミクロのモード切替えが、全体に波及するわけではありません。ミクロのモード切替が、その部分に留まるケースもあります。
局所化されたモード切替えが、全体に波及しないことにより、全体としては様々な局所化されたモードの組合せを持つことができます。2つの状態に分岐することができる局所化されたモードが内部に2つ存在すれば、全体としては4つの状態のパターンを持ち得ます。これが3つになれば、8パターンになります。
一般化すると、モードがN分岐する要素がM個あれば、NのM乗の状態パターンを持つことができることになります。人間の脳は推計で200億程度のニューロンを持つという事ですから、1つのニューロンが仮に2つのモードを持つとすれば、2の200億乗の状態を持つことができることになります。
外界からの情報により、脳の中のニューロンの状態というモードの集合が、全体として複雑なモードの組合せを実現し、それにより思考したり意志決定を行っているという見方ができそうです。
離散的なモード切替えが、知性の源泉の一つであるという見立てに対しては、マクロのモード切替でなく、局所化されたミクロのモードの組合せの方に着目するべきでしょう。これは、生命や社会性においても同様です。
少し物語的な表現になりますが、社会に危機が訪れた時に、全体が危機対応モードになる事も重要ですが、単に危機を全員が認識するという同じモードになるだけでは、効果的に危機に対応できないでしょう。危機に対して、社会は組織を形成して、その組織の中、あるいはその中で役割を担う個々人は、危機的な状況における個別の問題を扱い、自分に与えられた役割にフォーカスして対処する必要があります。
このように状況や問題をマクロで捉えつつ、ミクロに分解し、分解された多数の問題に、それぞれ適したモードで対応する要素が必要になります。こうしたミクロの局所化されたモードが多数あり、それらが連携することができると、大きくて複雑な問題に全体として対応が出来るようになります。このマクロとミクロのモード切替の能力が、生命、知性、社会性の源泉となり、生物、知能、社会を支えているのではないかと思います。
■さいごに
化学物質とその化学反応の連鎖、物理構造の組合せ、フィードバックループの束、そしてモードの集合、という複数の側面が生命という現象を形作っていると私は考えています。そして、太古の地球において、これらがそれぞれ進化することで、相補的に支え合いながら結びついていき、最終的に細胞の誕生に至ったのだという見方をしています。
この記事で挙げたモードの側面だけでなく、この生命の起源の全体的な構図は、抽象化すれば知性や社会にも当てはまります。こうした共通の構図、すなわちアーキテクチャに基づいて生命、知性、社会の姿を観察し、そこに現れる性質や法則についての知見が得られると、相互にその知見を適用して新しい発見ができる可能性があります。