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不利益最小化の視点:人権、民主主義、リアリズム

基本的人権、民主主義、国際関係におけるリアリズムは、いずれも異なる価値観に基づいているように見えるかもしれません。

基本的人権は個人に価値を置いています。民主主義は部分的には個人に価値を置いていますが、最終的には社会の多数の人の意見に重きを置いている点で、多数派の集団に価値を置いています。国際関係におけるリアリズムは、国家という単位に価値を置いていますが、その中でも自国に最大の価値を置いています。

基本的人権は普遍的な価値を扱っており、自分と他者の間で価値に差異はありません。民主主義は状況により変化する価値を扱っており、多数派と少数派で価値に差があります。国際関係におけるリアリズムは繰り返しになりますが、自国中心の価値観です。

このように、価値の単位や、普遍的なのか利己的なのかという観点で、これらは全く別の価値観であるように見えます。

しかしながら、得られる価値という観点を離れて、失われる価値という観点から見ると、これらには戦略的な共通点がある事が分かります。これらは何れも、他者が利己的に行動した場合を想定して、失われる価値を最小化するという考え方に立脚しています。

■基本的人権の場合

基本的人権は道徳的基盤を提供しますが、これが強力なのは、非常に多くの人がこの考え方に同意しているためです。私たちは絶対的な善というものを知る事ができません。このためある程度の共通性がありつつも、文化や時代によって善悪の基準は異なります。

基本的人権も絶対的な善かどうかは私たちには分かりません。しかし多くの人が賛同しているということが、この考え方を強力に支えています。では、絶対的な善であるかどうかが分からない中で、どのようにして異なる文化の人たちがこの考えを支持するのかと言えば、それは多くの人にとってメリットがあるためです。

他者の権利を侵害しても構わない社会と、他者の基本的人権を守りつつ活動をする社会があるとします。道徳的な善悪のことは忘れて、各自から見たメリットを考えてみます。

権利侵害を許容する社会は、一部の人は他者を犠牲にして積極的に活動して多くのメリットを享受でき、他方の人はその被害に遭ってデメリットを受けます。権利を守る社会では、積極的に活動する人は他者の権利を侵害できないためメリットも限定的になります。一方で、その他の人は被害を受けることがなくなりデメリットは大きく軽減されます。

活動に消極的な人にとっては、明らかに権利を守る社会の方が望ましいでしょう。一方で、積極的に活動する能力や自信がある人にとっては、得られる利益の最大という観点では権利を無視する社会の方が望ましいように見えます。

しかし、そうした積極派の人々も、その能力と自信を必ず維持できるとは限りません。また、そうした人の子孫の事も考えると、どこかで能力を持てない人も出てくるでしょう。そうなると、積極派の人でも、最悪の事態を想定した場合には、基本的人権を守る社会が望ましいと考えるはずです。もちろん、完全な平等は積極派にとっては大きな機会損失になるため、一定のラインの権利を全ての人に保証して最悪の事態に備えつつ、積極的に活動してメリットを享受する機会もあるという姿を望ましいと考えるでしょう。

■民主主義の場合

同様に民主主義も考えてみましょう。民主主義も、絶対善であるかどうかは私たちには分かりません。このため多くの人が支持をするかどうかが焦点です。

民主主義は大きく2つの特徴を持ちます。一つは専制君主制のような権威主義との対比です。二つ目は多数決の原則です。

権威主義との対比は、先ほどの基本的人権と同様の構図です。権力を握る人にとっては権威主義はメリットが大きく、それ以外の人にとっては民主主義によって権力を持つ人を入れ替えることができるということが最悪の事態におけるデメリットを最小化できます。

権力を握る人も、自分が失脚した時に再逆転のチャンスが得られにくい権威主義と、多くの人の支持を集める事さえできれば再度権力を得られる可能性がある民主主義は、最善のケースでは前者、最悪の事態を想定した場合には後者が望ましいと感じるはずです。歴史的に多くの社会では権威主義は終焉を迎えていますから、多くの権力者も最善のケースだけを考える事はできないでしょう。

多数決の原則については、例えば納税額が高い人たちといった一定の特性を持った少数の人の意見が尊重されると、その他の人たちは最悪の場合には大きなデメリットを被る可能性があります。一定の特性を持つ人たちも、これまでの議論と同様、その地位が永続しない可能性を考慮すると、一定の特性の人の意見が尊重される社会は、いつか自分たちやその子孫が逆の立場になるという最悪の事態を想定すると、必ずしも望ましいとは考えないはずです。

もちろん、大勢が間違った選択をする可能性もありますが、大勢が間違って大勢に大きなデメリットがあれば、選択を修正することができます。最悪のケースは、少数意見が間違っていて、その少数の人以外の大勢に大きなデメリットがあった時に、それを修正できないという状況でしょう。民主主義の多数決の原則は、このような最悪の事態を想定すると、基本的には望ましいと考える人が多いはずです。

■国際関係におけるリアリズムの場合

国際関係におけるリアリズムは、他者が利己的に行動した場合を想定して、失われる価値を最小化するという考え方そのものです。

国際社会においては、歴史的にも現実的にも、道徳や倫理よりも国益を優先するという考え方が主流です。世界政府が無い以上、道徳や倫理を違反しても、お互いに非難することはできても強力に処罰することはできません。そうなると、他国が道徳や倫理に違反することも前提に、自国の振る舞いや行動を考えざるを得ません。

その際に、自国の国益を最大化する野心を持っている政治リーダーもいるかもしれませんが、知的エリートによる官僚的な機構が機能していれば、最悪の事態を想定した戦略を政治リーダーに提案するはずです。国家が存続していれば国益を増やす機会は存在し続けますが、国家がなくなってしまえばそれまでだからです。このため、基本的には知的エリートたちは、最悪の事態においても国家が失われないようにすることを第一に考える事になります。

国際関係におけるリアリズムは、こうした考えに基いて、国際社会における自国と他国のパワーバランスに焦点を当てています。

最も安全なのは、他の国を全て足してもそれを上回るパワーを自国が持つことですが、それは実現が困難です。このため、自国のパワーを向上させつつ、他国と同盟関係を結びます。この際に、同盟相手もリアリズムに基づいて行動することを想定しなければ、あっさりと裏切られる危険性があります。このような視点で同盟関係が築かれていくと、どこかにパワーが偏るのではなく、パワーバランスを保つような形で同盟関係が出来上がっていくことになります。

これが国際関係が常に緊張関係になってしまう理由とされています。そして、想定外にパワーバランスが崩れた時に大きな混乱が生まれてしまいます。最悪の事態を想定して被害を最小化する戦略ではあるはずですが、国際社会が複雑化しつつ、そこで起きることが十分に予測できない場合には、多くの国が大きな被害を受けるという結末に陥ってしまいます。

これは最悪のケースにおいて被害が出ることが軽視されているというよりも、ある側面での最悪のケースによる被害の最小化を目指していると、別の想定外のケースで最悪の事態が起きるという難しい現実があるということだと思います。

国連のような国際機関にもっとパワーを持たせるという事も一つの案ですが、最悪の事態を想定するとそれも難しいというのが現状です。最悪の事態とは、そうした国際機関が一部の国からの影響を強く受けるようなケースです。その観点から見れば、強力なパワーを持った国際機関というのは、結局は同盟関係の一つの形態に過ぎず、そこに多くの国が参加することは、リアリズムがパワーバランスが偏らない方向に同盟を結ぶ本質的な傾向と反します。

■最悪の事態同士のせめぎ合い

基本的人権のような道徳、民主主義のような政治体制、リアリズムのような国際戦略は、異なる分野で異なる考えに見えますが、全て私たちの生活に結びついています。そして、それぞれが完全にバラバラの考えであれば、どれを重視するか、どうバランスを取るかには客観的な方法はなく、主観的な意志決定だけの問題となります。

しかし、ここで分析したように、全てがその根底に最悪の事態における不利益の最小化という戦略に基づいているのであれば、最悪の事態同士の不利益の比較をして、より大きな不利益となる事態に対して手当てしていくという全体戦略を考える事ができるはずです。

これは、チェスや将棋などをコンピューターに考えさせる際のミニマックス法というゲーム理論の手法に相当する考え方です。

ある権利や考え方を強く前面に押し出してしまうと、別の側面での最悪の事態における被害が大きくなってしまう可能性があります。このため、チェスや将棋でも、道徳・政治・国際関係といった現実の世界でも、あらゆる観点から考えて、最悪の事態における被害の最小化に見合うかどうかという戦略に大きな意味があります。

■考え方の客観的な評価

従って、ある考え方が絶対に正しいとか、それを信じるべきだということを前面に出しても、多くの人の賛同を得ることは難しくなります。絶対的な善が私たちには分からない以上、一つの価値、一つの側面だけを強調されても判断ができません。

基本的人権、民主主義、リアリズムが現代で強く支持されているように、最悪の事態における不利益最小化というミニマックス法に基づいた考え方が、多くの人の賛同を得て、現実に力を発揮していくはずです。

基本的人権、民主主義、リアリズムといった考え方も、もちろん完全なものではありません。時代の変化の中で部分的に変更や補強がなされていくはずですし、これらの観点からではカバーできない問題には、別の考え方が必要になるはずです。

そうした修正案や新しい考え方を評価する際に、より支持を得ることができるかどうかは、最悪の事態における不利益最小化という観点に適合しているかという指標により、客観的に判断ができるでしょう。運が良ければより良くなるという考え方では、これらの考え方に匹敵する、あるいはそれを超えていくことはできないはずです。

■社会システムへの信頼

基本的人権、民主主義、国際関係におけるリアリズムは、最悪の事態における不利益最小化に基づいていると表現してきましたが、厳密に言えば「前提条件付き」の最悪の事態です。それは、他者が私たちに対して積極的な善意も悪意も持っていないという前提条件です。

もしも、全ての他者が悪意を持って私たちに対峙しているとすれば、最悪の事態というのは非常に厄介でほとんど有効な対処ができないような状況になります。

そのような前提ではなく、他者はそれぞれ自分自身の利益やリスク最小化を目指して活動しているという前提での、最悪の事態を想定しています。もちろん他者が利益やリスク最小化のために決断した行動によって、私たちが被害を受けることはあります。しかしそこには善意も悪意もなく、ただ利己的に行動しているに過ぎないという事です。

このように、他者には善意も悪意もないと仮定するというのは、他者の善意を信頼しないということと同義です。他者の善意を信頼しなくても済む社会システムが求められて、基本的人権、民主主義、国際関係におけるリアリズムといった、社会的な仕組みやメカニズムが普及したと考えられます。

それは他者を信頼する代わりに、社会システムを信頼しているということです。他者の善意を信頼せずとも成り立つ社会システムは、システムが信頼を受け止めている事になります。そして社会は、信頼を受け止める能力を高める方向に進化する性質を持っているのではないかと考えられます。

■さいごに:多文化共生

異なる社会は、異なる道徳的な原則、政治体制、国際関係への取り組み方を持つ可能性があります。こうした異質性は、従来、社会同士の調和を難しくすると考えられてきました。しかし、どういった道徳原則、政治体制、国際関係への取り組み方を持っているかを、お互いが正しく理解しあっていれば、その理解に基づいて最悪のケースを想定することができます。

これは、お互いの社会が同質であることが調和の条件ではなく、異質であってもお互いを理解できることが調和にとって重要であることを示唆しています。

この事は、強大な力を持っている国が、その社会が持つ思想を他国にも普及させるという考え方の正当性を薄めるでしょう。それぞれの社会は、その社会にフィットした思想を採用するべきですし、他の社会から押し付けられるものでもありません。

基本的人権、民主主義、国際関係におけるリアリズムが、異なる視点でありながらも、不利益最小化の視点から比較評価してバランスが保てるように、異なる原則、体制、取り組み方を持っている社会同士を、この視点を軸にバランスを取って調和させていくことを目指す道があるのではないかと私は考えています。

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