泣きながら微笑んで ~AKB48・大島優子の懐古録~ #26
■ 2012.3.25 さいたまスーパーアリーナ公演
前田敦子が第1位に返り咲いた第3回総選挙が終わり、その翌月AKB48は西武ドームで大規模なコンサートを行うも、某お菓子会社との企画で誕生させた「12.5期生」を登場させたり、「学芸会の延長」と運営が自ら揶揄していた某テレビ局のヤンキードラマの寸劇を織り込んだりと、ファンが望んでいるとは思えない構成で、古くからAKB48を見てきたヲタさん達のブログ等における西武コンの評判はすこぶる悪かった。また、後に公開された2011年の活動ドキュメンタリー映画において、野戦病院さながらの舞台裏の様子を晒してしまったことにより、本来ファンに見せるものではない「失敗」までも「お涙頂戴」のネタにして金儲けに走る運営のやり口に私は益々嫌悪感を抱くようになっていた。大島優子個人を応援したいという思いを抱いていても、優子のAKBグループにおける重要度が増せば増すほど私が彼女の姿を直接見る機会は反比例的に減少していった。そして年が明けAKB48最初の大箱コンサートがさいたまスーパーアリーナで開催されることとなり、当初は行く予定がなかった私であったが、友人B氏が最終日公演の「死角席」というステージ真横の席(※通常価格の半額で販売)を確保したというので、特に予定も入れていなかった私は久しぶりにAKBの大箱コンに参戦した。懐古録と言いながらこのコンサートだけはどんな内容だったか全く思い出すことができない(汗)自分が積極的にコンサートに参加するつもりがなかった証拠であり、記憶にとどめる価値もない内容だったということを裏付けるものである。しかし、コンサートの最後にAKB48の歴史を揺るがす大きな発表が行われる。
前田敦子「今日ここで皆さんにお伝えしなければならないことがあります。」
敦子が胸を抑えながら言葉を振り絞った時、場内モニターに映し出された高橋みなみはすでに泣いていた。
敦子「前田敦子はAKB48を卒業します」
前年から卒業のことを頭に描いていたようで、同い年で最大の盟友である高橋にはその気持ちを打ち明けていた模様。秋元康氏をはじめとする運営は多分慰留したと思うのだが、敦子の卒業への思いを止めることはできなかったと当時の私は思った。この日のパフォーマンスを見ても敦子だけ時折苦しそうな表情を浮かべており、体力的な疲労以上に精神的な疲労が敦子を苦しめていた。ドラマ出演のための役作りやセリフ覚え、アイドルとしての握手会参加やコンサート出演、その他CM撮影、雑誌の取材と多忙極まりない毎日。そしてセンターを任せられる者ゆえの宿命であるバッシングを含めた周囲の様々な声との戦い。自分の将来を色々と考えた時に今AKB48を辞めなければ自分が潰れてしまうと考えたのではないだろうか。「AKB48に一生を捧げます」といつか宣言した敦子が、AKB48を辞める選択をしたということは結局そういうことなんだろうと思った。敦子の卒業発表後、場内のスクリーンに映し出された優子の表情は硬かった。おそらく敦子に対するこれまでの様々な思いが去来していたと思われるが、個人的には「先に敦子に(卒業を)宣言されてしまったな・・・」という気持ちで一杯だった。
同年8月AKB48は「宿願」だった東京ドーム公演を行い、敦子はその翌日の劇場公演をもってAKB48を卒業した。一方世間から「ライバル」と言われ続けてきた優子はそこから約2年AKB48の主力メンバーとして活動を続けることとなったが、「ポスト敦子」としての扱いをされたわけではなく、渡辺麻友、指原莉乃、松井珠理奈ら「後輩の壁」としての役割を与えられ、運営が「活動の肝」であると位置づけた「握手会」は優子の参加が前提となってしまう。敦子という「片翼」を失ったAKB48は、「新しい翼」となれる可能性のあるメンバーはいたものの、しばらくの間、優子という「残った片翼」で飛び続けることとなる。そして東京ドーム公演で発表された新組閣体制において、優子は秋元才加に替わりチームKのキャプテンに指名され、新たなメンバーとともにチームKを盛り上げていくはずだったのだが、「運営の怠慢」により優子やメンバーは出鼻をくじかれることとなる。新公演のセットリストが完成するまで上演されることとなった「ウェイティング公演」であるが、過去の劇場公演楽曲やシングル曲を継ぎ接ぎしただけの内容であり、かつて私の気持ちを高ぶらせてくれた劇場公演の姿はそこにはなかった。 (#27につづく)