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泣きながら微笑んで ~AKB48・大島優子の懐古録~ #22

■ 2010.4.19 「RESET」公演

2010年3月某日、私は東京への転勤を命じられた。しかし、AKB48劇場までの距離は確かに近くなったものの、AKB48の人気上昇やガチャ廃止に伴う順後入場権利の消滅により劇場公演に入場するためのハードルは前年に比べてより高くなっていた。それでも仕事後に平日公演に行けるようになったことは大きく、組閣後最初に新体制をスタートさせていたチームKの「RESET」公演に初日から約1か月後のタイミングで入場することができた。この日の公演後には、長い期間待たされていたSLガチャ権利の「神経衰弱」の機会が設けられ、宮澤佐江ちゃんと30分間トランプをしながら新生チームKや劇場公演の感想の話をする。これは管理人のヲタ活の中でも貴重な体験のひとつであった。

そしてこの日の公演には優子が出演していた。新体制になって優子に何か「新しい変化」はあるのだろうか?ダンス、表情、MCどれを見ても「いつもの大島優子」であり、他のメンバーよりも一歩も二歩も抜きんでているところも「いつも通り」だったのだが、それ以上でもそれ以下でもなかったというのが私の率直な感想だった。K4公演で私が感じ始めていたことが、K6公演ではより明確に感じ取れるようになっていた。

「大島優子の『アイドルとしての』伸びしろ」

その後何度か優子出演のK6公演を見るのだが、パフォーマンスは優れていれていても「伸びしろが無い」という私の思いが最後まで変わることはなかった。2013年にOAされた「情熱大陸」の中で、秋元康氏は卒業前2~3年の優子について、こうコメントしていた。

 2~3年前から優子は相当悩んでいたと思いますよ。
 他のメンバーにはまだ見えていない「ガラスの天井」に、
 ある時点で優子は手が届いてしまった

優子はもっと早く「別の世界」に活躍の場を求めるべきだったと今でも思う。しかし、当時彼女のAKB48における存在価値が大きくなりすぎてしまい、彼女の一存でどうこうできるという状態ではなくなっていた。そしてその事実を決定的にした出来事が2010年の「選抜総選挙」だった。前年1位の前田敦子を破って第1位の座を獲得した優子は「背中を押してくださいとは言いません。ついて来てください!」とAKB48の中心的存在としてグループを引っ張っていくことを宣言する。しかし、その優子の決意表明を私は苦々しい思いで聞いていた。

「また遠回りなのか・・・」

アイドル活動と並行して2010年に「小田霧響子の嘘」、2011年に「私が恋愛できない理由」、2012年に「カエルの王女さま」と「彼女の夢」である女優活動を行っていたのであるが、役作りのための十分な時間が与えられていたわけでもなく、毎週の様にAKBグループの握手会に駆り出され、優子が劇場公演に顔を出す機会は年を追うごとに少なくなっていく。実際転勤で東京にいた3年間で優子を劇場で見た回数は2010年が3回、2011年と2012年は2回という有様で、個人的には「会いに行けるアイドル」というAKB48のグループコンセプトは破綻してしまっていた。

(#23へつづく)

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