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法律を守る欧米人と、常識を守る日本人

法律を守る欧米人と、常識を守る日本人、なんていうと新書のタイトルぽいですけど。欧米を長年、旅をしてきたバックパッカーの人と話す機会があって。日本人の人ですけど。で、日本にいると、いわゆる常識を守らないといけないので、疲れる、というか、田舎社会だと、何を「常識」と思っているか、分からない。で、一方、欧米人ははっちゃけているように見えて、意外と、法律は守っている、という話をしていたんです。

この話は、僕は以前に何回か書いているので、焼き直しですけれども。人間が共同体(群れ)を作るにあたり、どのような決まりを作るか、集団行動の行動原理を作るか、という話です。これは、小さな共同体であればあるほど、ルールが要りません。家族ぐらいの少人数であれば、その家のルールをみんな、理解するわけです。このお茶碗は、お母さんのものとか、風呂掃除はお父さんがやるとか、それなりのルールが自然に発生して、それは、明文化されません。言わずとも、皆が分かっている状態です。

これが、同じ村の中、また、同じ言葉を喋る集団(例えば日本人)、というように、集団の人数が大きくなってくると、それにつれて、決まりごとが薄くなっていきます。家族の決まり事は「濃い」けれども、村の決まりごとは、それに比べたら「薄い」。誰にでも当てはまるようになっていく。集団が大きくなればなるほど、薄くなっていきます。

最も「薄い」決まりごとが、現代社会では、「法律」です。それより、もうちょっと「濃い」のは、「常識」です。常識は法律よりも、個別対応している(濃い)。常識というのは、自然に醸成されるものです。コロナを見れば分かるでしょう、マスクは法律ではなく、日本の場合は「常識」の範疇だったわけですが、それは、コロコロと変わります。地域によっても変わります。それだけ、空間的にも時間的にも、個別対応できるということです。

この「常識」が通用する範囲が、同一民族とか、同一宗教とか、同一言語圏、というものです。「話せば分かる」というものです。しかし、世界には、話しても分からない人というのもいます。お互いの常識が違うわけです。なぜメッカの方向に1日に5回も祈るのかとか、断食するのかとか、ま、話し合ってお互いに相手を了解するということはできますが、お互いの抱いている「常識」が違うために、共通ルールを作ることができません。しかし、一緒に暮らすなら、共通ルールを作らないといけない。それが「法律」の起源です。

常識が通用しない奴らと一緒に暮らさなきゃいけないという状況で、法律は生まれました。ま、見てきたように言っていますが、たぶんそうです。講談師、見てきたような、嘘を言い、と思ってください。世界のほとんどの地域では、このような状況だったと思います。大陸ですから。日本のような島国なら、ある程度、言語の同一性があり、宗教の同一性があり、ほぼ同一民族と言ってよい環境が出来上がりましたが、普通は、こうでは、ありません。「常識が通用しない世界」の方が、世界の大多数です。

常識が通用しなければ、どうなるか。「法律を守れば良い」のです。というか、法律を守らなければいけないのです。でも、日本はそうではありませんよね。まず、守るべきは「常識」です。一応、体裁を守るためにか、法律は、ありますよ。でも、守っていないでしょう。もちろん「常識」と「法律」が一致している場合がほとんどですから、常識を守れば法律を守ることには、なります。ただ、常識と法律が矛盾している場合は、常識の方が優先されます。そういう社会です。

よく僕が言う例ですが、高速道路の制限速度を守って走るのは、常識がありません。雨が降って制限時速が50キロになって、50キロで走る人はいないでしょう。トロトロと走りやがって、常識が無い、と、なるわけです。普通、50キロ制限になっていても、90キロぐらいで走ります。でも、そこで130キロで走ると「常識が無い」となって、スピード違反で逮捕されます。

常識というのは、よく変わります。時間と空間が違えば、変わります。それはそれで、便利なこともあります。わざわざ法律を作らなくても、同調圧力という常識のパワーで、世の中が変化して、集団行動ができるわけですから、そのメリットもあります。しかし一方で、その常識というのは、どこにも書かれていない。感じるしか無いんです。で、これを感じられるかどうかが「空気を読む」という能力です。なので、日本社会で空気を読めない人は、生きづらいです。皆が法律を理解しているのに、一人だけ理解していないようなものですから。

ですから、日本人は常識は守るけど、法律は守らない(というか、重要視していない)。一方、欧米の多くの人は、常識(日本人から見る常識)は無いけれども、法律は守る。だから、なんか、あんなヤンチャなのに法律は守るんだ、という、違和感を感じるわけです、日本人から見たら。

また、法律というのは基本的に「やってはいけないこと」を書いています。法律に抵触しなければ、何をしても良いということです。一方、常識というのは、やってはいけないことも、やるべきことも、書いてある、というか、雰囲気として発散している。ですから、使いやすいんですよ。でも、外部の人は理解できない。

ま、田舎暮らしあるあるですが、田舎の常識を都会の人は理解できない。それは、しょうがないんです。都会はむしろ「法律」の世界に近いですから。ま、腐っても日本ですから、常識はそれなりにあるのですが、田舎よりは「薄く」なっています。で、せめて思うのは、お互いに「常識は知らない」人同士だと、思っていたら良いです。常識は日本中で統一されているわけでは、ありませんから。お互いに、田舎者も、都会人も、お互いを非常識だと思っているわけです。

で、せめて、お互いの常識が違って、どちらも正しいんだ、というぐらいに、メタに思っていたら、下手なつまらないトラブルが無くなるんじゃなかろうかと思います。ま、そのうち、田舎の共同体は消滅していって、どこも「都会的」に、それこそ、法律の社会になっていく、という流れだと思います。法律にならないと、他民族共生は不可能ですから。面倒くさいけど、法治国家にならないといけないんですね。はい。またあした。

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