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なぜ地域共同体が必要なのか

現代社会の問題に、マクロスケールの解決策──国レベルとか、世界レベルとか、は存在していても、それを実用するためには、現場に落とし込まないといけない。それがうまく機能していない、という問題があると思います。なぜ機能しないかというと、中間組織がダメだからです。日本で言えば、国が(まぁ、一応、ちゃんとしていると仮定の上で)ある施策を用意したとしても、都道府県や市町村レベル、そしてもっと小さな町内会とか家庭のレベルに落とし込めない。国と個人、という繋がりになるわけです。

国と個人でうまくいかないのは、ぶっちゃけ言えば、そこまで人間はちゃんとしていないからです。個人への補助があったとしても、きちんとそれを利用できない。これは、特定の能力を必要とすることです。事務能力、計算能力、コツコツと予定通りにこなす能力。それは、人間の能力のごく一部であり、それは人間が普遍的に持っているものではありません。でも、国と個人ということになると、そのような個人を想定するわけです。この想定通りの人間は、ごく一部。

これはいわば、あらゆる建物が身長175センチ以上の人に向けて設計されているようなものです。そして、それを設計している人間は身長185センチぐらい平均値であるので、ま、175ぐらいだったら十分だろう、みんな簡単に手が届くよね、と思っている。でも、世の中には140センチの人間もいっぱいいる。これが身長だと明らかに目に見えるけれども、事務能力や計算能力は目に見えないから、うまく働かない。

本来は、そこをケアするのが家庭や町内会(地域共同体)などの中間組織なんです。多様な人間性を、そこが担保していた。高いところにあるものは、背が高い人がとってやれば良いように、しっかりした人がちゃんとすれば良いだけのことなのですが、そうなっていない。では、なぜ中間組織は壊滅したのか、という問いが成り立ちます。

本来、人間というのは個人ではなく、家族、そして地域共同体(おおむね100人〜数百人)に所属して生活していたのですが、この、家族や地域共同体というものは、それぞれの価値観があります。江戸時代で言えば、日本の人口は3000万人で、そこに諸藩300ぐらいがあった。単純に割り算をすれば、10万人の共同体が300あったわけです。10万というのは、500人の村が200と考えれば、まぁ、一つの藩(個人)が把握できる限界が、そのぐらいでしょう。そして、諸藩300を束ねるというのも限界の数字。

人間が普通に把握できる人間関係というのは100ぐらいまで。事務能力に長けた人が数百までは、いけるでしょう。10万とかを個人が把握することは不可能。なので、500人、200ヶ村、300藩、というぐらいのスケールになるわけです。で、日本は南北に長い列島で、日本海側と太平洋側で気候も大きく違う。脊梁山脈がありますから。で、土地に多様性があるから、文化も多様性が出てくる。方言が違えば言語が違うぐらいの、違いがある。言語が違うということは、価値観も違う。そのように多様性があった。

しかし、明治期に西洋列強に追いつけと、無理矢理にでも国づくりをしなければならなくなった。国というのは、一つの価値観で成り立たなければ、まとまらない。だから、国を作るときに、多様な価値観があった地域共同体というのは解体されるわけです。だから、諸藩の「お殿様」ではなくて、中央から派遣された「知事」による中央集権にならなければ、国づくりができない。その過程、百数十年において、地域共同体は無くなっていって、個人と国という現代社会が成り立ったのだと思います。

そもそも、国というのは何のために作られたのか。先ほど言ったように、西洋列強に追いつくためですが、要は、武力のためです。戦って負けないために、です。では翻って現代社会で、国としてのまとまりが「武力」のために必要かというと、そうではなくなった。武力が良いかどうかは置いておいて、武力が必要としても、近代兵器は素人を集めれば良いというものではない。つまり「やる気のある兵隊」がたくさん必要だった日清日露戦争の時代とは違うんですよ、ってことです。それよりはハイテク技術者の方が必要です。

やる気のある兵隊を生み出すためには、均一の教育で、多様性を排除した国づくりが必要だったのですが。現代社会の「武力」という点では、少数の天才がいれば良いわけで、じゃあそういう人材をどう育てるかというと、これは人間の多様性ある才能を伸ばす方が良いわけで、となると、地域共同体や家庭などの中間組織が、多様性ある個人をケアして伸ばせば良いわけです。ということで、これからの時代に何が大切になってくるかというと、家庭、そして家庭を支える地域共同体、その上位の市町村などの自治体になるわけです。

これは武力と同じく経済力にも言えることで(経済や武力を伸ばすのがそもそも良いかどうかは、今は問題外です)、要は、きちんと定時で働く真面目な労働者が必要とされていた明治から昭和の時代と、多様ある才能が必要とされている現代社会で、そういう人間を生み出すシステムが違うよ、という話です。これは、明治期が間違っていたとか、昭和の教育がやばかったという話ではなく、その時代での情勢により、必要とされている人間が違くなるよ、ということです。

ま、僕としては、そもそも多様性を担保する地域共同体があることが、人間が自由に幸福に生きられる必要条件だと思っているので、それを身の回りに作ろうと思いますが。あえて武力とか経済力の観点から言っても、そっちが正しいということです。はい。またあした。CIAO。

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