見出し画像

似たもの同士が集まって

共同体というのは本来、違うもの同士が集まって、群れとして協力し合う形態です。で、そこに帰属することで、ヒトは居場所がある、役割がある、という安心感を得られる。あくまで、他者との関係性の網目の中で、自我が形成されるわけです。

さて、地域共同体、そして家庭も崩壊していって「個人社会」になっているわけですが、そうなると、自我の拠り所がありません。で、自分探しをします。ここに登場したのがインターネットで、共同体から切り離された浮遊した「個人」が、自我の安定のために、落ち着き先を得ました。それがネット上の各種のコミュニティであり、そこで、自分と似た趣味嗜好の人を見つけて、ああ、自分は一人じゃなかったな、と安心するわけです。

ただ、人間というのは、違うんです。群れを形成する動物だからこそ、多様性があるんです。アリやハチなどの社会性昆虫は、役割分担して、群れとして1つの生命体のように動いています。でも、単独行動する虫ならば、形態は似ているでしょう。セミはセミです、働きゼミとか、女王セミとかの役割分担があるわけでは無い。人間も群れを形成する動物なので、多様性があります。

インターネットでやっと見つけた「似たもの」も、どこか違います。完全に全て同じというわけでは無い。だから、どこかで不安になります。そもそも、互いに自我の安定のために寄り添っているのですから、違いは、無い方が良いのです。でも、違いは必ず在る。ということで、常に不満はあるし、満たされない。

人間は本来、違うもの同士が集まって、そこで「自分の役割」を得るのですから、似たもの同士が集まったらダメなんですよ。なのにAIは、似たものを薦めてくるわけです。ほら、これが好きでしょう、と。結局、AIというのは道具であって、個人の自我を拡張するツールなのです。ま、あくまで、精神的安定のコミュニティ形成において、ですよ。その分野においては、限界があるということです。

「知らないもの」は、自分は知らないのですから、他者との出会いによってしかもたらされない。AIがひょっとしたら、気遣って、新しい動画とかお薦めしてくるかもしれないけど、人間の多様性には敵わないと思う。

人間の幸福というのは、人間関係の網の目の中で、他者に認められて役割を与えられる、居場所を得られる、ということでしか得られないと思います。もちろん、共感性が低くて、人間関係に依存しない、つまり、人間関係で幸福ホルモンが出にくいという人もいるでしょうけれども、大抵の場合は、人間関係からしか得られない。同様に、苦悩も人間関係からしか得られない。その問題に対して、インターネットは解決策を出せていない。似たもの同士が集まりたいという欲求は、満たされない欲求だからです。

その欲求に対して、表面的に満たすものなのか、根本的に満たすものなのか、その区別を資本主義はつけません。経済が動くことが良いことなので、問題解決しているかどうかは、関係無いのです。というか、問題解決しない方が、経済的には成果が上がります。病気になって、1回の診療で治った医者と、10回通ってやっと治る医者。前者の方が、さっさと問題解決しているので良い医者だと思いますが、後者の方が、売上は伸びます。根本的な問題解決をしない方が、売上は伸びるのです。

インターネットの隆盛も、その多くが、根本的な問題解決をしないために起こっているものだと思うんです。SNSなんて、本当の問題解決──長年、連絡が取れなかった友人と再会したとか、不用品のマッチングができたとか──は、ごく一部でしょう。おそらくエネルギーの9割以上は、問題解決に結びつかない出来事です。だって、人間関係の問題というのは、違ったもの同士が集まる共同体でしか、根本的には解決できないのですから。はい。またあした。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?