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生老病死について

お釈迦様が言うところの四苦の、生老病死ってのがありますが。これが人間の根源的な苦しみらしいですが。今のところ、特に感じないなぁと思って。ま、幸いにも健康であるということもありますが、でも、一方で、人とそんなに関わらない生活をしているのが大きいかなと思うんですよ。

一番わかりやすいのが「老」ですが、老いというのは相対的なものでしか、ありませんから。世の中に自分1人しかいなければ、老いることは無いんですよ。ただ、自分がいるだけ。僕も山奥に住んでいるからか、そんな感じで、主観的な年齢って20歳ぐらいから、ほとんど変わっていない、というか、自分が何歳だとかも思っていない。そりゃ、書類とかに書く機会があるから、嫌でも覚えていますけれども。主観的には全く変わっていません。

例えば、僕は43歳だそうですが、自分が43歳だと思うからには、43歳のイメージが無いといけないんですよ。で、43歳のイメージというのは具体的な誰かのイメージではなく、抽象度の高いものです。ということは、複数の43歳前後のサンプルが無いといけない。そういう人間を多数見ていて、ああ、43歳はこのぐらいだな、自分も43歳になったな、と思うわけでしょう。

でも、周りにいる人間は、名前と顔のある具体的な人間で、とすると、そいつの43歳は僕の43歳と関係が無いじゃないですか。だって、そいつはそいつ、僕は僕、別のことですよ。人間は、多くの他人がいないと、抽象化できないんです。年齢もそうだし、性別もそう、学歴もそう、それらの抽象度の高いプロフィールというのは、あくまで、匿名性の高い社会、つまり都会だからこそ、成り立つものです。見知った顔しかいない場所では、抽象的な概念が無い、必要ないからです。

とすると、具体的には自分のことだけで、すると、43歳も45歳も関係ないんですよ。年齢というのは社会的な取り決めに過ぎませんから。ってことで、「老」なんてものは存在しない。「病」もそうです。人間、普段、生きていても好調も不調もあるわけで、どこからが病気というわけでは無い。病院で診断を受けて、初めて「病気」になるんです。これも概念なんですよ。だってみんなどうせ死ぬんだから、そう考えると、全員、病気です。不治の病ですよ、テロメアが減っていくんですから。

病というのも定義次第。ということで、存在しない。体調が良いとか悪いとか、そりゃ存在しますけど、どこからが病かというものは存在しない。で。死。死も存在しませんね。だって、自分が死んだことを意識できるわけが無いんですから、死ぬわけが無い。「あ、死んだな」と思うことは無いと思いますよ。なので、気にしなくてOKです。で、最後の生。生が苦しみとか、なかなかお釈迦様もメンタル病んでいるなと思いますが。これも、苦しいと思っているから苦しいのであって、なんか、言葉遊びみたいなものですね。

何が言いたいかというと、生老病死というのは、匿名性の高い社会、すなわち都会の苦しみだということです。個人化した社会だから、で、お釈迦様もそういう社会に生きていたからこそ、自分一人で修行して、哲学的に、苦しみとは何かと考えたわけです。ま、知らんけど、そんなんだと思います。

おそらく、田舎で、見知った顔に囲まれて、その小さな村で自給的に、根を張って生きると、生老病死という苦しみは存在しないと思うんです。ただ、全体の一部、この全体というのは仲間や先祖や子孫や環境というもので、その一部として生きられるんじゃないかな、と。ま、僕は都会育ちで、生老病死に染まって生きてもいたので、心の底からそう思えることがあるかどうかは分かりませんが、ちったぁ味わってみたいとも思うので、コミュニティを作ろうと思うわけです。はい。またあした。

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