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お役所仕事としての意識

 昨日、人間の感覚は信用できない、という話をしましたが。まぁ、人間に限らず、生物の感覚というのは、その生物が行動するための理由に過ぎないので、その生物にとって必要ない情報は感知できないのです。で、人間の場合は、後天的な「文化」によって「必要なもの」を書き換えられるんです。ま、それにしても、せいぜい、人間の身体的な能力の範囲内では、ありますけれども。いくら必要だと思い込んだところで、X線とかを感知できるわけはないんですから。

 科学の歴史というのは、機械によって、感覚入力機能を爆上げした結果、見えなかった世界が見えるようになった、ということだと思います。顕微鏡があればこそ、微生物の世界や、細胞という構造も分かるわけですし。望遠鏡があればこそ、天体運動の物理法則も分かる。そしてX線とかガンマ線という電磁波も感知できるようになった。

 「見えないもの」というと、幽霊とかスピリチュアル的な世界観になってしまいますが、そもそも、ほとんどのものは見えていないんですよ。空気中のホコリだって見えませんし、皮膚の常在菌だって見えませんから。人間の中には、他の人には感じられないことを感じて、第六感的に、理由は分からないけれども、その結果だけは分かる、という人がいたって全然、不思議じゃ無い。渡り鳥が地磁気の方向を感知するのと同じようなものだと思えば、まぁ、そんな人もいるだろうと思うわけです。

 人間の思考の大半は無意識で行われているというのは、ある程度、一般常識になってきていると思います。意識的な判断だと思っていても、その判断の前段階の「本当の判断」は、無意識下で行われていたりする。その判断を、上司が盲目的にハンコを押すように(会社勤めしたことないので、例えが不安ですが)、意識が決定した、という建前になっている。その、意識が決定したという言い訳、というか、自己説得がうまくない人が、「なんだか分からないけど、こう思う」という、無意識の結果を口にするのだと思います。

 昨日書いたように、人間の知覚が制限されている上に、さらに「意識」は人間の判断の、ほんのごく一部しか担っていないので、人間が感知して分かっていることなんて、せいぜい、その程度なんだということです。人間は、ほとんどのことを感知できないし、その限られた感知から無意識で判断していて、その判断を事後承認しているのが、意識の働きです。ですから、意識の働きなんていうのは、無意識の判断に、せいぜい「社会的な正当な理由」をつけることぐらいです。まるでお役所仕事のようですが、それが、意識だと思っています。

 意識はなぜ発生したのか、という、まぁ哲学的な昔からの課題がありますが。僕は、意識というのは、まずは「育児」で生まれたと思っています。このことはnoteの「ヒトの飼い方」っていう文章でまとめたので、ま、そちらでということで。でも、それに加えて、社会的な理由があるだろうな、と思っています。先ほど、お役所仕事のように事後承諾するだけだと言いましたが、するだけだ、とは言っても、それは重要なことでもあるんです。自己欺瞞でもあるのですが、それで社会がうまく回るのであれば、自己欺瞞の価値はある。

 人間は群れを作る社会的な動物ですから、何よりも重要なことは、社会をうまく継続させることです。人間というのは個体ではなく、社会が最小単位です。150人ほどの社会を想定しています。誰が想定しているかというと、我々の遺伝子が想定しているんです。我々の遺伝子は、150人ほどの社会を存続させることが、最重要課題です。ですから、そのために、我々の「意識」も設計されていると思うんです。

 となると、無意識下で行われた判断が、それが利己的なものであれ、なんであれ、意識としては「社会が存続できる」理由を作らなくてはいけない。そして、自分も社会の一員ですから、自分をも欺瞞したほうが、遺伝子としては都合が良い。人狼(カードゲーム)で最も強いのは、天然人狼というか、自分が人狼であることも忘れているような人狼でしょう。自分の行動の「本当の理由」、これは無意識の理由ですが、そんなものは必要無いんです。というか、総合的な理由だから、理由なんて言語化できないと思う。

 その、言語化できない行動の理由を、無理やりに言語化させるのが「意識」の働きであり、それは、社会をうまく回すために必要なことなんです。もし人間が群れを作らず、クマのように自分一人で生きていく生物なら、我々のような「意識」は発生しなかったと思います。無意識に生きれば、それでいいんです。でも、社会は、言語によってコミュニケーションすることで作られる、ならば、その一員として我々は、自分の行動を言語化しないといけない。そのためには、行動理由を、お役所的に整える「意識」が必要不可欠なんだと思います。

 ということで、学校で「遅刻の理由」を書くことにも、意味があるわけです。遅刻の理由なんて、分かるわけないんですよ。寝坊したから。なぜ寝坊したのか。テレビを見たからか。なぜテレビを見たのか。ストレスが溜まっていたから。もしくは、宿題をしながら見ていてダラダラとしてしまったから。ね、こんなもの、理由なんかあるわけないんですよ。でも、社会的には、そこに「理由」を求める。寝坊してしまいました、と「素直に」書けば、それで良い。

 そうして社会は、欺瞞の上に回っていくわけですが、無意識から見れば意識なんて全て欺瞞でしょうから、それでいいんです。自分も、周りも、騙すんです。周りを騙すには、まず、自分からです。そうして意識は「寝坊したから」という理由をつける。本当に、そう思い込む。それで、社会がうまく回ればいいんです。学校のクラスという、意識が、それが全ての社会であると思い込んでいる(なぜなら設定が150人程度だから)小さな社会で、うまくやっていければ、それでいいんです。そのために意識はあるんです。はい。またあした。

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