問題を解決すると、問題が解決する

 単細胞生物が繋がりあって多細胞生物になったとき、細胞はそれぞれの役割を分担して、仕事を特化するんですね。脳細胞と皮膚細胞では全然、役割が違う。さて、人間が「集団」になったときに同じようなことが起こって、このグループの中で、自分がどのような位置にいるかということで、役割を果たすようになっていくわけです。

 問題は、そのような「集団」が無いということです。集団が無いと、自分がどのような位置にいて、どのような役割を果たせるかということが分からない。なので「自分探し」になるのかなと思う。そりゃ、同い年ばかりが、そして中高とか進学するにつれて、同い年で、同じような学力の人ばかりが集められた、しかも時には同じ性別ばかりが集められた集団にいたら、そりゃ、自分とは何だろうかと思うわけです。

 さらに、人間関係が無いので、アイデンティティが希薄になって、自分がやっていることに自信が持ちたいと思って、SNSで検索すると、AI様が「こんなのが好きなんでしょう」という情報を出してくる。すると、自分と似た人が集まるコミュニティがあり、ああ、ここが居場所だと思うけれども、やはり、そのような「似た集団」の中で、一体、自分とは何だろうか、となる。だって、似た集団の中で違いを見出すのは、難しいから。

 本来、集団というのは構成員が違うからこそ、集団の意味があるんです。皮膚細胞だけ集まったら、皮袋の出来上がりです。子供、青年、老人、男女、違いがあってこそ、自分の役割が分かってくる。集団の中に、二十代の男性が3人しかいなかったら、そりゃ、自分が何者だろうとか考えるまでもないわけです。明らかに、体が丈夫で、元気で、そういう役割だというのは分かる。人間関係が希薄になったのが問題というよりも、似た人ばかりの人間関係になり、似ていない人との人間関係が無くなったことの方が問題だと思うんです。

 で、我々は生まれてこのかた、似たもの同士で集められて、似たもの同士でのコミュニケーションはやったことがあるんだけど、似ていない人と話したことが無い。高校生で、赤ちゃんと話したことがある人は、どのくらいいるのか。90代のおばあさんと話したことがある人、40代でバリバリ働いている男性と(父親以外で)話した人は、どのくらいいるのか。というと、いないんですよ。ほぼ、いない。なので、我々は「似ていないもの」同士のコミュニティを作ることが、ほとんど出来なくなっている。

 でも、それを作らないことには、人間が居場所を見つけることができない。じゃあ、どうしたら似ていないもの同士のコミュニティを作れるのか。そもそも、人間はどういう時に群れて、コミュニティを作るのか。僕は、問題が起こった時に、コミュニティを作るんだと思います。ただ、問題の質により、その問題解決のための組成が違ってくる。

 非常にニッチな問題であれば、それについて得意な人たちが集まるコミュニティになるんです。「木を切る」という問題であれば、その問題を解決するのは、チェーンソーや重機を扱える人の集団になるわけです。現代の働き方というのは、そういうものです。つまり、産業がそれぞれニッチになっていったことで、問題がニッチになり、解決するための集団が同質化するわけです。じゃあ、逆に考えて、似ていない人たちのコミュニティを作るためには、ニッチではない、総合的な問題であれば良いわけです。コミュニティを作るために、問題がある。

 コミュニティづくりのためには、どのような問題が良いか。総合的な問題であればあるほど良い。となると、これは自己解決のようなことですが、コミュニティづくりという問題は、最も、コミュニティづくりのためになるということです。コミュニティを作るためには、土木、建築、林業、農業、水道、電気、排水処理、法律、経済、エンタメ、教育、という問題が山ほど出てくる。多彩な問題なので、それを解決するためには多彩な人間が必要で、それがコミュニティづくりになっていく。

 つまり、ハードとしてのコミュニティを作っていくと、ソフトとしてのコミュニティ(人間関係)が出来ていくということです。ということで、はいどうぞ、というように、居抜きの村があったところで、村は作れないんですよ。ただのアパートです。タワマンが、ただの近所であって、コミュニティでは無いのは、そういうことです。村を作ることで、村が作れるんです。あるものを買うのではなく、自分たちで作らないといけない。それが村づくり、コミュニティづくりということです。はい。またあした。

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