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蜃気楼のような「理想の教育」

 先日の、木材と人材の話が気に入ったので、蛇足を続けてトカゲにします。本来、自然物である「人間」を、どうにかして「人材」にするのが教育である、という話をしました。これは、自然そのままが良いと言っているわけでは無いんですよ。どうにしろ、人間は人間を自然物ではなく、人工物にしないといけない。ホモサピエンスという動物を、人間にしないといけない。ただ、その「程度」の問題だということです。現代日本の教育は、行き過ぎた教育。そこまでいかず、自然体の、それなりの素材を生かした「人材」にした方が良いということです。

 毎度言うように、こういう話をするときに単語が無くて困ります。「全くの自然状態の人間(ホモサピエンス)」と「伝統的な共同体で教育を受けた人間」と「現代日本の教育を受けた人間(人材)」というのは「違う」という話をしたいんですが、言葉が無い。赤とオレンジと黄色の話をしたいときに、色を表す言葉が「赤・青・白・黒」しかなければ、オレンジも黄色も赤でしょう。サーモンピンクとか、言えないでしょう。それが面倒くさいんですよね。

 日本は古代、色を表す言葉は先述の4語しかなかった。世の中には、白と黒しか色を表す言葉がない民族もいる。そういう人でも感覚としては「赤」を感じているわけで、じゃあ、どうやって表現するかというと「血の色」と言うわけです。「〇〇の色」という、具体的な事物で表すわけです。なので日本でも「山吹色」とか言うわけです。なので、この文章もそんな感じになります。言葉が無いから。

 さて、自然状態の人間(ホモサピエンス)から、ガチガチの教育を受けた人間(人材)まで、グラデーションになっています。このグラデーションというのは、生物としての人間が、どの程度、共同幻想に取り込まれるか、その結果として、本来の生物的な能力に蓋をされてしまうか、ということです。能力に蓋をするというと、これまたマイナス感がありますが、そもそも能力に蓋をしないと言葉も喋れないし、思考もできない。例えば「日本語を学ぶ」ということは、英語や中国語やスワヒリ語を喋れなくなる、ということです。能力に蓋をするわけです。

 これはホモサピエンスが、共同体を作る「人間」になるときに起こる、文化的なアポトーシス(予定死)です。アポトーシスってのは、生物が身体的に形作られるときに、細胞の死がプログラミングされているんです。例えば「指」をどうやって作るかというと、ニョキニョキと指が生えてくるんじゃなくて、平たいものがあって、指の又にあたるところが死んで、指が残るわけです。これがうまくいかないと「水掻き」がついて生まれてくるわけですが。水泳、めっちゃ速そうですけど。

 よく自己啓発とかスピリチュアルとかで、人間は無限の可能性を持っていると言われますが。もちろん、そんなことはありません(無限の可能性があると「人間が思っている」のは、正しいけど)。ただ、生まれて直後であれば、可能性が最も高い。でも、その可能性を絞っていかないことには、具体的に、この世界で役割を果たすことが出来ないんです。特に人間は、クマとかネコと違って群れを作る動物ですから、その群れに合わせて、可能性を排除しないといけない。その過程を「教育」と言っていると、僕は思っています。

 共同体(群れ)として動くからには、ある程度、個人の可能性を除去した上で、足並みを揃えないといけない。共同で動くと、人間個人にフォーカスしたときに、生産効率は下がるんです。でも、群れで動くことにより分業や知恵の伝達が進み、生産効率が上がる。教育を受けなければ、個人は自由である。教育を受ければ、可能性は狭まる。でも教育を受けないと、集団行動は出来ない。そして、その時々の環境、群れのサイズ、それらにより「最適な教育」は変化し続ける。ある条件の下での、最も生産効率が良い、最適な教育というのがあるわけです。

 言うように、最適な教育は存在するけど、変わるんです。ですから、常に外す。なので、修正し続けないといけない。それを、現代日本に限って言えば、教育が非効率になり過ぎている、もっと教育を受けない方が良い、と僕は思っている、ってことです。これは、インターネットの普及により大規模な集団行動が必要なくなったこと、核兵器の開発により国民皆兵にも意味が無くなったこと、生産技術が発展し過ぎて環境問題で人類が自分の首を絞めるようになったこと、これらの「環境の変化」を踏まえると、教育が変化してくるということです。

 もちろん、環境変化のファクターは無数にあるし、じゃあ、その個人がどこの集団に所属するのかということでも、変わるわけです。「日本」に所属するのか、しないのか、それで教育は変わる。これは、義務教育を受けなきゃいけないとかの、つまらない話じゃありませんよ。その個人が、どの集団に属するか自認するというのも、環境ファクターだという話です。それにより、最適解が変わるということです。家のためなのか、会社のためなのか、国のためなのか、世界のためなのか、それとも自分一人の幸福のためなのかで全然変わるわけです。

 この「何のために」というのも、一昔前は「国のため」という強力な共同幻想があったんですが、明治から始まったこの幻想も1945年に水を差されましたので。そして、今やそんな幻想を保持している人は、ほとんどいません。ワールドカップの時に、その残り火がちょいと復活するぐらいのものです。そして、それより弱い会社幻想、家幻想も無い。自分のためにとか、好きな人のためにという小さい幻想しか、現代社会には無い。そりゃ不登校になりますよ。だって、教育はそもそも国のためのものですから。幻想が滅びたら滅びます。

 ってことで簡単に結論を言えば、学校とか行きたきゃいけばいいけど、嫌だったら行かなきゃ良いし、好きにすりゃいいよ、ってことです。そして好きにしているうちに、自分の、これはと思う共同幻想が見つかれば、その時に必要な教育を、自分に対して行えば良いと思います。またあした。

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