仲間大好きマイルドヤンキーが、車を好きな理由

昨日、大きな車を運転する機会がありまして。面白いのは、新しい車を運転していると、だんだん、その車が自分の身体として馴染んでくるという感じがしてきます。2〜3時間も運転したら、感覚がマッチしてくる。僕は田舎に住んでいるので、普段から運転しているし、いろいろなタイプの車を運転するので(軽トラ・ハコバン・普通車・軽四、とか)、なんというか、違う車への馴染ませ方も身についているんでしょうね。かなり、スッと、馴染むことができる。

身体感覚が一致してくると、思考も一致してくるというか。よく、車に乗ると性格が変わるとか、ベンツは偉そうに振る舞うとか、そういうの、聞くじゃないですか。ああいう感じって、あると思います。軽四を運転しているときと、いわゆるDQN御用達のような大きなミニバンを運転しているときだと、感覚は違います。もちろん、その動物的な感覚をできるだけ無くそうと、身体的な一致はしても思考的な一致はしないように、運転しようと思うんですが、そう「思わせる」力が自動車にあるというのは、感じます。

本来、肉体の一部ではない道具を、肉体や自己の一部として感じてしまうというのは、他の動物には無い人間の特徴です。ま、霊長類は多少はできると思いますが、人間ほどでは無い。この、道具を自己に含めるというのは、もっと広く言えば、自己の範囲が自由自在に拡大する、ということです。その機能が道具ではなく、他者に働けば、その他者と「思いを一つにした群れ」を形成し、仲間になるということです。

自己の拡大のしやすさには、個人差があります。拡大しにくい人は、クールな一匹狼のように見られる。拡大しやすい人は、仲間思いの熱い心を持つように思われる。で、後者のタイプの一つが、いわゆるヤンキー的な人であれば、ヤンキーが車を好きなのも分かります。仲間を大切にするということは、自我が拡大しやすいことであり、外部の道具も自己と同一視しやすく、なので、車のカスタムなんかも「自己の成長」と捉えられるわけです。一匹狼的なクールな人が、自動車のカスタムに熱心だ、というイメージは、あまり無いでしょう。

自動車というのは、移動手段としてはもちろん価値がありますが、それ以上に現代社会では、自己の拡大対象としての価値があると思います。同じような行為は、その昔から、衣装や、アクセサリーなど、まさに「身に着ける」ものが基本的な対象だったとは思いますが、自動車というのは、鎧のように自分を包みますから。なので、自動車の「顔」のデザインも重要でしょう、自分の顔みたいなものですから。

そして、自動車というのは巨大な産業でして、こういう心理的なところを考えていないわけがないと思う。いわば「かっこいい」という、自動車の機能に何の関係も無いものを追求するのは、そういう心理的なところですから。運転していても、この車を「自分の一部」と感じられるかどうか、むしろ、感じられるようにしようとするはずです。それは機能の面からも実際、必要なんですけど。だって、身体的な一致感がある方が、安全ですから。でも、身体が一致するということは、心理も一致する。不可分です。

僕は、人間の「自我を拡大する機能」の本当の使い道は「群れを作るため」にあるため、つまり、他者に共感し、同情し、知らない相手とでも仲間になる機能だと思っているんですけど。それがうまく働かない現代社会では(その原因は、教育とかお金にあると思いますが)、対象物が、自動車とか、服とか、推しのアイドルとか、ペットとかに行ってしまいます。もちろん、そもそもそれが好きだというのは、人間は多様性があるので、絶対にあるのですが、完全に自己同一化してしまうほど、のめり込むのは、おかしな状態だと思います。

なので、適切に、人に向ける。そして適切に、道具に向ける。今は、外部の道具(推しのアイドルとかは、人間じゃなくて道具です)にのめり込み、それを「経済発展」としてGDPにカウントするわけですから、なかなか末世だなと思いますが。一方で、人に向けると、その仲間との間での金銭やり取りが減るので(協力すると信用が作られるので、金銭やり取りは減ります)、経済的にはマイナスになります。はい。そんな感じ。またあした。

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