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コミュニティの収斂進化

 コミュニティづくりをしているというのが、どこからともなく広まると、同じようなことをしている人が集まってきて、で、大体、みんな人数が100人ぐらいになっていく感じがします。それぞれの動機は違えど、答えが似通ってくるのが面白い。僕の場合は、できるだけ楽に幸せに生きるにはどうしたら良いか、という問いから、100人のコミュニティという結論に至っているのですが、別の問いから同じような答えに行き着くこともある。

 カニの話、前にしたかどうか忘れましたが。カニって、生物の一つの最適解なんですよ。だから、カニってどこにでもいる。海から川から山から、いないのは東京のような大都市ぐらいじゃないですか。地球上、大抵、どこにでもいる。平べったくて、足がいくつもあって、2つは手のように動いて、甲羅で防御力を高めて、というのが生物の一つの最適解なんです。タラバガニはカニじゃなくてザリガニの仲間なんですが、カニみたいになっていくんですよ。別種の生物だけど、形が似通ってくるのは、それが最も効率が良い形だからです。

 コミュニティサイズというのも、カニのような形に収斂進化していくようなものだと思っていまして。人間のDNAという設定の最適解が、100人集団なんですよ。じゃあ、なぜ今の世界は個人化だったり、もしくは国や世界的宗教のように何億人という集団になっているかというと、戦争などのバトルロワイヤルの世界観では、それが最適解だったからです。でも、無理がいっているんです。だから不幸になるんです。ストレスの無い環境下であれば、100人程度の集団に収斂していくだろうと思うのです。

 ストレスの無い環境を目指すというのは、また別の課題ですが。とりあえず現代日本で言えば、物資に溢れているし、戦時下にあるわけでもない、というか、あったとしても、それが「1万人集団」のような徒党を組むことにより解決できるわけでは無い。人間集団を強制的にまとめて、数を稼ぐことで、実質的な利益があるわけでは無い。(ま、100万人とか集まれば別ですが)

 人間集団のサイズによっての有利不利が少ない。これが数百年前とかであれば、人数が多い方が戦争に勝つし、富も生み出せるし、という理由で集団が巨大化したわけですが、そういう環境要因が無いわけです。また、これは陰謀論的というか、「お金」による管理のためには個人化した社会の方が良いし、また、資本主義的にも個人化した社会の方が需要が増えるので、個人化が進められたんだと思いますが、そこに幸福な暮らしが無いと気づけば、個人化という答えもなくなる。

 ということで、現代日本の場合は、個人化も巨大集団化も失敗を見てしまっている。ある意味、失敗を繰り返して自由な状態、どこにも幻想を抱けない状態になっている。というフリーな状態になると、水が最も低い場所に自然と流れるように、遺伝子的に楽なところに集まってくるのではないかと思う。それが100人の集団、ということです。

 楽、というのは動機としては弱いと思います。それよりも恐怖とか欲の感情の方が強い。セロトニンよりもドーパミンやアドレナリンの方が、動機として強いということです。でも、ドーパミンやアドレナリン的なものへの幻想がなくなれば、セロトニンという「弱い動機」が顔を出してくる。勢いがなくなった社会だからこそ、セロトニン的な解答が日の目を見る。それが、いろいろな動機から、100人ぐらいのコミュニティへ近づいていっている、ということだと思うのです。

 水が低いところに流れる、と言いましたが、水の勢いがあるときは、低いところから高いところへ行くんですよ。津波だって、そうでしょう。でも、それが落ち着くと、自然と低いところに行く。そういう感じ。恐怖や欲望が無くなった先に、止水のような穏やかな世界になるのではないか、と思っています。またあした。

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