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無駄を踏んだ数だけ、大切なものを見極められるようになる

私には、幼馴染がいた。泣きたくなるほど、大切なひと。

その人は、4年前、持病で亡くなった。高校生の頃から余命が決まっていて、終わりが決まっていた人だった。だからこそ、誰よりも悟っていて、私に色々な考えと、思想と、言葉を教えてくれた。

その人が教えてくれたその人の思想の欠片が、今の私を作ってくれている。

終わりが決まっている人間というのは、死によって生がとてつもなく輝いている。儚いからこそ憧れ、生と死のコントラストが共存するその人に、人生を掴まれた。

なぜ人を殺してはいけないのか。という質問に、彼はこう答えた。
「ではなんで、世界に1冊しかない激レア漫画や、戦国武将の直筆手紙は、燃やしてはいけないのだろうか。」
「レアなものは、燃やしたら勿体無いから燃やさないだろう?人の命もそういうことだよ。殺してはいけない、という規範ではなく、1つしかないレアものだから奪ったら勿体無いのだよ。」と。

はたまた、「乗り過ごした駅の分だけ、人生を無駄にした気がする」と呟いた時、その人はこう言った。
「無駄を踏んだ数だけ、大切なものを見極められるようになるんだよ」と。

桜を見ながら、夏休みの間に、紅葉狩りに行きたいと話しながら、ストーブの前で。春夏秋冬、病室でその人と様々な考えを話し合い、私自身が明確に変わっていく音を聞いた。

高校生だった私は、
自分の考えを、こんなにも理路整然と言語化して相手に伝えることができる人間という生き物は、なんて美しいんだろうと、その人を見て思った。

多くの人にこのような質問をしても、「哲学すぎー笑」「え?考えたことなかった」「考えてなんか意味あるの?」などという答えしか返ってきたことがなかった。

しかし、その人がそのように答えてくれた事が、私の世界に雷鳴を落とし、その衝撃が、今も響いている。

その人の足のサイズも、癖も、好きだった小説も、好きだった音楽も、好きだった駄菓子も、なにもかも、愛おしくて仕方がない。

彼の死によって、彼の生に縋っている。

今もなお、なにか相談された時、「その人ならなんと答えるか」と考えて、言葉を紡ぐ。
私にとってのコンパス。もう一度会いたいな。

「恋愛的に好きだったの?」と母に聞かれた時、絶望した。
「そんな陳腐なものじゃないんだよ。神の位置付けかもしれない。お母さんはイエスキリストと付き合いたい?」と聞き返したけれど、私の言葉は通じなかった。

価値ある一瞬に沢山出会わせてくれて、その一瞬を永遠にする術を教えてくれてありがとう。貴方が、次は夢を叶えますように。
「もう良いよ、長すぎるよ」って思うぐらい、生きられますように。

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