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なぜ抽象的な一般論を学ぶべきか?

数学の話は抽象的になる傾向があり、多くの場合それが難しさやとっつきにくさの原因となっている。現代数学は言うに及ばず、高校数学も中学以前の数学に比べて、その抽象度は大幅にアップする。抽象性は単に物事を難しくしているだけなのではないか、と感じる人も多いだろう。しかし、抽象度の高さをいったん克服してしまえば、実は抽象性は必要なことであり、自然なやり方だったと気づかされることも多い。数学に限らない話だと思われるが、抽象度の高い議論は端的に必要なのであり、必要だからこそさまざまな場面で抽象的な概念による抽象的な議論がなされているのだろう。

では、なぜ抽象性の高い議論が必要なのだろうか?

例えば、理系の大学初年度科目である線形代数学においては、高い抽象性への要請が顕著な形で現れる。というのも、線形代数は行列の計算術としての具体的な側面もあれば、ベクトル空間と線型写像という極めて高い抽象的対象の代数学という側面もあり、その両面を学ぶことが重要とされているからだ。

線形代数学を学ぶとき、ベクトル空間や線型写像といった抽象的な概念についての一般論を学ぶべきなのはなぜなのだろうか?行列の計算に習熟するだけでは、何が足りないのだろうか?

実際、この点は線形代数学を学ぶ人たちにとって興味のあるところだろう。例えば、線形代数学とは行列(や作用素)の計算について学問だという考え方は、それなりにもっともらしく聞こえるし、(非常に限定的な意味で)ある程度は正しい。基本変形や対角化・ジョルダン標準形などについて熟練の技を磨くことは重要だ。有限次元に限らなくても、量子力学のようなヒルベルト空間の計算に熟達することも重要だろう。しかし、「抽象的な線形代数学を学ぶべき」という言説は、これらだけでは不十分だとでも言わんばかりである。

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このマガジンのタイトルにある「数学する精神」は2007年に私が書いた中公新書のタイトルです。その由来は、マガジン内の記事「このマガジンの名…

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