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病と共に生きる父

年末に体調を崩した父。年明けの検査入院で横行結腸癌であることが判明した。

cStageⅣ。家族の予想を超える結果となった。

告知を受け、父にとって当たり前の日常の色彩が変わる瞬間だったことを思うと、かける言葉が見つからなかった。兎にも角にも「励ます」しかないと思い、LINEでのやり取りをしている。

SNSで「癌サバイバー」の方たちの言葉を知った。闘病に当たり、何よりも「考え方」が大切であると言う。健康的な食事はその次ぎに来るし、治療や医師の重要性はむしろ下位にあるほど。病気と共に生きて行くうえで「考え」の持ち方がどれ程重要かがわかった。

「考え」を形作るのは「言語」だから、言葉を紡ぐことによって、父の心の中に揺るぎない強い力が備わればと願う意味もあって、この「note」に何かしら書こうと思った。

息子である私にとっても、父の病気の知らせは降り積もる雪のように気持ちの中に言いようのない、どっしりとした重みを徐々にもたらした。日々、ふとした時に遠い昔の父の姿を思い出したりするような心の変化が自分にさえあった。病気の知らせが父の存在をより色濃くしたように思える。

父は朝に昼に夜に何を考えているのだろうか。取り留めも無い想念に心を乱されていないかと考えてしまう。

3月で72歳になる父は昭和24年生まれの団塊の世代。三度の飯より酒が好きだった。50を過ぎたころから糖尿病を患い、それでも好きな酒はやめなかった。とにかく仕事と酒に生きてきた人だと思う。仕事を引退してからは趣味のゴルフと酒が生きがいになっているようで、悠々自適と言っても過言ではない、穏やかな老後を過ごしていると思っていた。

父の住む実家は長野県塩尻にある。私は埼玉で妻と二人暮らし、兄家族は東京に住んでおり、家族で父と会うのはこれまで年に1,2回程度。昨今のコロナ禍の現状を受けて長野に行くタイミングを失している現状もある。病気の知らせを受けた今、動けずに歯痒い気持ちでいる。

過去のことにはなるが、兄が大学に行き、私が高校を卒業したころに両親は離婚の道を選択した。聞かされていない事情も色々とあっただろうが、母が姑と上手くいかずに独り家を出て行った形であった。当時の私は自分の未来しか考えられずに意見も無く「仕方のない」ことと、親の別れを受け流した記憶がある。そんな中で兄は強く反対していたのを覚えている。

『これまで色々とあったね、親父。沢山のものを背負ってくれてありがとう』

2月2日から抗がん剤治療を受ける父。

父には、波の立たない静かな精神で治療に臨んでほしい思う。哲学者セネカの本に「肉体は牢獄」という言葉がある。揺らぎのない精神は恐怖や傷みをも凌駕する。

肉体と精神の戦いの地平へと父はゆく。その背中に力を送りたい。

吉田松陰の文庫を本棚から引っ張り出す。

処刑を目前にした吉田松陰は儒者であった。仏教にも頼らなかったが、神にも祈らなかった。ただひたすらその知性と意思力で死を克服しようとする。安政六年(1859)十月二十六日、遺書として「留魂録」を牢内で大急ぎで書き上げた。その翌日、評定所で死刑の判決を受け、松陰は即日処刑された。

以下、吉田松陰 『留魂録』全訳注 古川薫 から引用する。

第八章《現代語訳》

《一、今日、私が死を目前にして、平安な心境でいるのは、春夏秋冬の四季の循環ということを考えたからである。

 つまり農事を見ると、春に種をまき、夏に苗を植え、秋に刈り取り、冬にそれを貯蔵する。秋・冬になると農民たちはその年の労働による収穫を喜び、酒をつくり、甘酒をつくって、村々に歓声が満ちあふれるのだ。この収穫期を迎えて、その年の労働が終わったのを悲しむ者がいるということを聞いたことがない。

 わたしは三十歳で生を終わろうとしている。いまだ一つも成し遂げることがなく、このまま死ぬのは、これまでの働きによって育てた穀物が花を咲かせず、実をつけなかったことに似ているから惜しむべきかもしれない。だが、私自身について考えれば、やはり花咲き実りを迎えたときなのである。

 なぜなら、人の寿命には定まりがない。農事が必ず四季をめぐっていとなまれるようなものではないのだ。しかしながら、人間にもそれにふさわしい春夏秋冬があるといえるだろう。十歳にして死ぬ者には、その十歳の中におのずから四季がある。二十歳にはおのずから二十歳の四季が、三十歳にはおのずから三十歳の四季が、五十、百歳にもおのずからの四季がある。

 十歳をもって短いというのは、夏蝉を長生の霊木にしようと願うことだ。百歳をもって長いというのは、霊椿(れいちん)を蝉にしようとするようなことで、いずれも天寿に達することにはならない。

 私は三十歳、四季はすでに備わっており、花を咲かせ、実をつけているはずである。それが単なるモミガラなのか、成熟した粟の実であるかは私の知るところではない。もし同志の諸君の中に、私のささやかな真心を憐み、それを受け継いでやろうという人がいるなら、それはまかれた種子が絶えずに、穀物が年々実っていくのと同じで、収穫のあった年に恥じないことになろう。同志よ、このことをよく考えてほしい。》

心は常に共にあるから。







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