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「差別」って何だろう?
先日、息子のサッカーのチームメイトが体調を崩し、念のため、PCR検査を受けることになった。
息子はその子と一緒に練習しており、近くで話したりもしたらしい。
それを聞いた僕は「悪いけど、検査の結果が出るまでは、家の中でもマスクしてくれんか?」と息子に言った。
息子はしぶしぶマスクをしたが、しばらくすると、外していた。何でしないのか聞くと、
「そんなん医療従事者を差別するのと一緒やん。」とキレ気味に答えた。
いや、それは違う、と思って反論したが、息子はさらに反発して、「部屋に行けば文句ないやろ」と言って、自分の部屋に閉じこもってしまった。
「差別」と言われたのが引っかかった。もちろん僕が息子を差別しようなんて、これっぽっちも思わない。息子が悪いと思ってるわけではないし、単にリスクを少なくしたかっただけだ。しかし、息子からすると、差別された感じを持ったようだ。悪者扱いされた気分だったかもしれない。
改めて、「差別」って何だろう?と考えた。
よく学校の先生が「差別と区別は違います。」と言っていた。先生の言う「区別」は何かを別々のものとみなす、識別するというニュートラルな意味だろう。一方、「差別」には、別のものとみなすだけでなく、一方を優遇し、他方を冷遇するという不当なえこひいきというニュアンスがある。
今回、僕が息子を区別したのは確かだけど、差別したつもりはない。しかし、息子は差別されたと感じた。つまり、いつの間にか「差別」は生まれる。それが分断を生む。
天理大学のラグビー部にクラスターが発生し、ラグビー部とは関係ない天理大学の学生が、バイトを休まされたりすることの問題がニュースになっている。「不当な」という表現でバイト先は批判されているが、これも雇う側からすれば、リスクを減らそうとするニュートラルな区別でしかないのかもしれない。
医療従事者の子どもが保育園を休むように言われること、天理大学の学生がバイトを休むように言われること、家の中でマスクをさせられること、これらは程度は違うけど、お願いする側からすれば、リスクを低減するための単なる「区別」だが、言われる側にとっては「不当な」「差別」になる。
いろんな差別がもとはこんな風に悪気のないニュートラルなことだったりするのかもしれない。それが分断を生み、いつの間にか「不当な」ものに変わる。そういうことを考えさせられる出来事だった。
ちなみに息子のチームメイトはPCR検査の結果、陰性で、気まずかった親子関係もウイニングイレブンで対戦して、また元どおりになりました。
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