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ウェイバー・ベルベット──時計塔の探求者-①生還の代償

※『Fate/Zero』二次創作です
※『ロード・エルメロイⅡ世の事件簿』『ロード・エルメロイⅡ世の冒険』ともに未読です
※『FGO』は未プレイです
※ライネス(②から登場)は男の子で、名前は同じだけど別人です
※登場するメインキャラクターはウェイバー、ギルガメッシュ、イスカンダル(ウェイバーと直接会うことはありません)です
※時計塔の描写は『Fate/Zero』の説明から逆算できるものにしています
※トップ絵は大清水さちさん https://twitter.com/sachishimizu に依頼しました


 パキスタン/インド国境地帯、ひなびた川辺に奇妙な外国人の姿があった。
 まだ年の頃は十代に見える。安っぽいバイクにまたがり、頼りない夏の川を睥睨する。少女のような、おかっぱに切りそろえた黒髪は艶やかに風になびき、彼の秀でた額を隠す。パキスタン国内は内戦に揺れ、周辺事情はすこぶる悪いが、黒い瞳に静かな知性があり、怯える様子もない。
 彼は眉をしかめて、まばらに木の生える川辺にバイクを少し走らせる。
 小高い丘の木立から川を見下ろし、頷いた。
「ここが、あいつのオケアノス……」
 魔術師たちの隠された戦い、第四次聖杯戦争は前代未聞の殲滅戦となり、魔術協会の精鋭たるケイネス・エルメロイ・アーチボルト、並びに『始まりの御三家』遠坂とおさか家頭首・時臣ときおみが死亡。魔術師殺しと異名をとった衛宮えみや切嗣きりつぐも再起不能。異例の選別で聖堂教会より参戦した代行者・言峰綺礼ことみねきれいさえ初戦敗退、さらに第三次聖杯戦争を生き抜き、監督役に就いた言峰璃正りせいも殺害された。
 阿鼻叫喚の戦いの中、ただ一人、生還した者がいる──
 時計塔の生徒に過ぎなかった、ウェイバー・ベルベット十九歳。
 ライダーとして召喚されたアレクサンドロス三世のマスターだった男である。


     01. 生還の代償


 ウェイバーが街に向かってバイクを走らせていると、妙な鴉が併走してきた。ぴたりとウェイバーの肩の横を飛び、速度を上げても振りきれない。田舎道で埃を蹴立てながら、ウェイバーはバイクを止めた。街で借りたバイクはいささかブレーキが危うかったが、乗れないほどの代物ではない。
 ウェイバーが細い手を差し出すと、鴉が止まった。
『ウェイバー・ベルベットよ、魔術協会本部に出頭願う。繰り返す、魔術協会本部に出頭願う』
 少年と青年の狭間にいる彼は口元を歪めて独りごちる。
「Eh, please?」
 へえ僕に対してPLEASEねえ。お願いしちゃうワケか。
 ずいぶん僕も偉くなったもんだな。
 鴉はウェイバーが返答するまで同じ文言を繰り返す。その声は魔力を持つものしか聞くことができず、一般人が目にしても全く何をしているか判らない。もっとも、紛争地帯の川辺に人の姿は全くなかった。
「日本に帰ってから、一回そっちに戻るよ。いつになるかは分からないけど。ケイネス先生のことで用があるなら、そう伝言してくれないと戻らないよ。そらっ」
 ウェイバーが腕を大きく回すと鴉は空に一度羽ばたき、光って消えた。
 これでウェイバーの言葉がロンドンの魔術協会本部に転送される。
「馬鹿馬鹿しい」
 こちらの携帯番号を知っているのだから、電話をかけてくればいいと思う。しかし魔術師という生きものは、それに対応した術があると、なんでも魔術で解決したがる。
「遅れてると思うんだよね、僕は」
 ウェイバーの頭に豪放磊落な男の声が響き渡る。
 坊主、凄いのはコレだ、コレ。ほれ、このB2という黒くてデカイやつ。素晴らしい。
 あいつ●●●は新しいものに、なんでも興味を持っていた。あの先進性が歴史に名を残すほどの推進力になっていたのは間違いない。
「ホント、付き合うの大変だったんだからな」
 魔術師も進歩するべきだ。古い概念に囚われず、新しいものを取り入れて、新時代の魔術を築くべきなのだ。
 第一、電話なら着信拒否すれば済むのにさ。
 思って、あっと気がついた。魔術による通信は個人の存在自体を対象にしている。こちらが生存している限り、そして魔術的に探知を遮らない限り、いわば着信拒否ができない。さらに電話と違って詳細な個人情報を手に入れる必要もない。
「…………魔術の方が優れてる面もあるってことか」
 ま、確かにな。
 ウェイバーは頷かざるをえない。彼が危険な紛争地帯でバイクなんか走らせていられる理由は、彼が弱いながらも魔術師であり、暗示やごまかしが可能だからだ。これからインド国境を越えてニューデリーから日本に戻らなければならない。国境は封鎖されているが、警備の兵士にちょっとした暗示をかければ難なく抜けられる。
 ウェイバーは夏の盛りの川辺を振り返った。
 何故か、分かる。
 彼が立った場所、どちらを向いていたか。
 ウェイバーも黒い瞳で二千年前の視線を辿る。
「貴方こそ、僕の王だ。今も、未来も、死した後も」
 ここまで来て、彼は引き返した。そして神々の門バビロンで熱病を得て此岸を離れた。
 僕も、この身体を離れる時、貴方の臣下に馳せ参じる。
 征服王イスカンダル──ウェイバーの消えない思い出、英霊の光だ。


 ウェイバーは魔術師としては恵まれているとは言えなかった。祖母から続く魔術師の家系ではあったが、魔術の本場イギリスにおいて、それは何の意味も持たないほど薄っぺらい経歴だった。それでもウェイバーは独学で修練を重ね、魔術協会本部に併設される魔術師の最高学府・時計塔への所属を許可された。
 閉鎖的な魔術師の世界にあって、これは衝撃的な出来事であり、ウェイバーの資質は評価されてしかるべきものであったはずだ。
 しかし、現実はそうはならなかった。
 古い歴史を持つ魔術師の世界は年功序列と縁故で凝り固まっている。
 時計塔に集う魔術家門のエリートたちは桁違いの存在だった。
 先祖代々受け継いだ魔術刻印は格段に高度な術の行使を可能にし、血を重ねて磨いてきた魔術回路は莫大な魔力を生みだす。さらに有力家門の子息たちはたいてい裕福で、苦労らしい苦労もしたことがないように見えた。
 母も早くに亡くし、必死で石にかじりついて生きてきたウェイバーとは天地の差である。
 ウェイバーも自身の貧弱な魔術素質は賞められたものでないことは分かっていた。
 だからこそ魔術理論を磨き、さらに効率的で、基礎的理論と検証に基づくスマートな魔術を目指すべきだと、かねがね提唱しつづけてきたのだ。
 それは革新的だった。
 だが誰も認めようとしなかった。
 特に酷かったのは師のロード・エルメロイことケイネス・エルメロイ・アーチボルトだった。九代続いた魔術家門にあり、圧倒的なコネクションで時計塔でも大きな地位を占めていた彼が、ウェイバーの論文を『妄想』と切って捨てたのだ。
 それは許しがたいことだった。
 ケイネスが聖杯戦争のために手配していた聖遺物を偶然、手にした時、ウェイバーは為すべきことを見つけたと確信した。これこそ自分の才能を認めさせるチャンスだと。
 有り金つかんでヒースローから飛んだ時、自分の運命は決まったのだと思う。
 もっと言えば、先に待つ危険を顧みず、若さと怒りに駆られたとはいえ、征服王イスカンダルことアレクサンドロス三世を呼び出しえた、あの瞬間に。
 そしてウェイバーが日本・冬木ふゆきでの潜伏先に選んだマッケンジー夫妻の人柄に。
 たった数日でウェイバーの運命は驚天動地の変貌を遂げた。
 破天荒なイスカンダルに振り回されながら、ウェイバーは修羅場に次ぐ修羅場を渡った。連続殺人犯の犯行現場、あるいは異界の生物が襲来する夜の海、深夜の山道であろうことかアーサー王とカーチェイス。そして冬木大橋で訪れた別れと、恐るべき英雄王との対峙。
「でも思い出すのは、くっだらないことばっかなんだよな」
 二人で行った、ごく普通のスーパーや本屋。彼が見ていたミリタリービデオやゲーム。マッケンジー邸での気取らない日々。賑やかで、ばかばかしくて、だけど家族のような、不思議な毎日。
 運命の十一日が、僕の魂を変えてくれた。
 ウェイバーは冬木のマッケンジー邸の扉を開けた。
「ただいまー」
「ウェイバーちゃん、お帰りなさい。大丈夫だった? インドで危ないこと、なかった?」
 すぐにマーサ夫人が顔を出してくれる。老齢だがチャーミングで可愛らしい感じの女性だ。ウェイバーを血の繋がらない孫として、ずっと可愛がってくれる。ウェイバーには有難い存在だ。だからパキスタンに行ったことは伏せている。インド旅行としか伝えていない。
「何もなかったよ。はい、お土産」
 ウェイバーはインドの空港で買った紅茶や、特徴的な木版プリントのクロスやスカーフを詰めた紙袋を差し出した。
「まあま、ウェイバーちゃん、高いものを買わなくてもいいのに」
 マーサの驚く顔にウェイバーは黒髪を揺らして首を振る。
「そんなに高級じゃないよ。大丈夫。心配しないで。バイト代も入ったしさ」
 ウェイバーは聖杯戦争が終わった直後に決めた通り、マッケンジー氏の伝手でヨットハーバー管理人のバイトをした。ヨットを持つような富裕層は日本でも英語の話せる人が多く、日本語が話せないウェイバーでも務まった。ヨット管理の関係でパソコンの扱いも覚えられたし、静かな管理人室で好きに本を読みふけることができて、気に入っている仕事だった。
 バイト代は全て今回の旅行に注ぎこんでしまった。
「いい仕事、紹介してもらえたからね。グレンの御蔭だ」
 ウェイバーは下駄箱に手をつき、指を引っかけて靴を脱ぐ。日本式の生活にもすっかり慣れた。
 マーサが大きな袋をかかえて嬉しそうに笑った。
「せっかくだから、いただくわ。本当にありがとうね」
「いいんだよ、気にしなくて」
 それは本当のことだった。
 ウェイバーの身の上は実に、恐ろしいほど急転直下に変わってしまったのだった。
 ただ一人の生還者!
 全てを見た英雄。
 あれほど自分を軽んじていたはずの時計塔が掌を返したのだ。
 厳密に言うと、ウェイバーだけが聖杯戦争から戻ったわけではない。敗退した言峰綺礼は本来の神父職に戻っているし、衛宮切嗣も死んではいない。
 だが、全く無事に、何も失うことなく戻ってきた魔術師はウェイバーだけだった。
 ウェイバーには生涯、時計塔での自由な研究が許可され、奨学金と最低限の生活を保障する年金が支給される。時計塔に一室を与えられ、占有権を認められた。ロンドンで何不自由ない生活が約束されたのだ。
 だがウェイバーは分かっている。
 これは体のいい監視だと。
 聖杯戦争を生き抜いた唯一のサンプルを手元に生かしておくためなら、その程度の金は魔術協会にとって惜しくもなければ痛くもないという話だった。
 ま、もらえるもんはもらっとくけどさ。
 そうだろ、ライダー。
 ウェイバーは決めている。自分の『実家』はここだと。
「ただいま、グレン」
 白髪に立派な白いひげを整えたラフな老人が居間のソファでよっと手を上げた。背が高くすらりとして、落ち着いた雰囲気の男性だ。今は英語学校で非常勤の講師をしているが、もう七十を超えている。彼は異国である日本に骨をうずめるつもりだ。
「よく帰ったな、ウェイバー」
「うん」
 ウェイバーは笑う。心の底から。ここにいる時だけ、妙なプライドや鬱屈に足をとられず、平静でいられる気がするのだ。あの恐ろしい日々を過ごした場所にもかかわらず。


 二階の自室に戻ると、パソコンの前にどっさり手紙が積み上がっていた。
 魔術師の世界は狭いと言っても、魔術による事件を隠蔽するため、有力家門の多くは自国に密接なコネクションを築いている。それは当然、一般社会にも蜘蛛の巣のように張りめぐらされ、逆説的にそちら側から魔術師の有力者へのコンタクトも増えるのだ。
 時計塔から特別待遇を受けるウェイバーの下には、銀行や投資、不動産といった、見たこともなかった案内が国際郵便で到着し、ウェイバーを驚かせた。
「証券会社? これはなんだ、宝飾店かよ。いらね」
 ウェイバーは手紙をポイポイと振り分ける。
 その中で、どうしても無視できない手紙もある。
 聖堂教会の呼び出しと、魔術協会の事務局から来る正式な手紙だ。それらは一見、ごく普通の手紙に見える。だが魔力を持つものだけに分かる特別な封印が施され、間違って開けられたりしないようにされていた。
 ウェイバーが触れた瞬間、その薄い封筒は青白い炎を上げて燦めいた。
 後には真っ白で宛名もない封筒が現れ、ウェイバーが封を切ると、驚くほど分厚い紙束がどさっと出てきた。とても薄い封筒に入る量ではないが、魔術的な送付物ではよくある現象だ。
「……」
 ウェイバーは無言で、立ったまま、一心不乱に報告書を読む。
 それは聖堂教会第八秘蹟会による聖杯戦争全般の報告書だった。聖堂教会による監督役が設置されてから、聖杯戦争の記録が残されるようにはなった。だが、あちら側の記録は通常、魔術協会が閲覧することはできない。ウェイバーが閲覧を許されたのは特例中の特例だ。
 もちろん全てを網羅しているわけではない。聖杯戦争は魔術戦の最高峰。情報攪乱、隠蔽は当たり前。聖堂教会をもってしても、終盤の詳細は不明となっている。
 だが、いくつかウェイバーは知らなかった事実も記されている。
 ウェイバーは全てのサーヴァントを見た数少ない人間でもある。黒い闘気をまとっていたバーサーカー、聖杯問答を襲撃したアサシン、異界の生物を召喚したキャスター、ランサーたるディルムッド・オディナにセイバーたるアーサー王とは共闘もした。アーチャーとして戦場に君臨した英雄王ギルガメッシュとは言葉も交わした。そして自身のサーヴァントだったライダー、征服王イスカンダル。
 しかしマスターの方はというと、とんと知らない状態だった。
 ウェイバーはニュースの内容もよく分からなかったが、キャスターのマスターは冬木の街を連続殺人犯として震え上がらせた瓜生うりゅう龍之介だった。もちろん御対面はしていない。バーサーカーのマスターは消去法で考えれば間桐まとうの魔術師しかありえないが、ウェイバーは見ていない。英雄王ギルガメッシュのマスターも同様だ。ウェイバーは彼と二度、対面した。だがマスターは一度も見ていない。遠坂の魔術師ということしか知らないのだった。そしてセイバーとは何度も顔を合わせたのに、セイバーのマスターであった魔術師殺し・衛宮切嗣とも一度も会ったことはない。
 衛宮切嗣と一度だけ携帯で話した、と証言した時、魔術協会の担当者も聖堂教会の調査員もどよめいたほどなのだ。
 彼の声を知っているだけで、特別すぎるほど特別なことらしい。
 しかし、その衛宮切嗣も現在、冬木市内で療養生活を送っていると報告書にある。
「マジかよ……」
 僕でさえ助かったのに。
 いや、どうして自分は助かったのだろう。何度も頭をよぎった言葉が蘇ってくる。
 ライダーがいつも守ってくれた。どんなときでも隣にいた。騒々しい男だったから、怖いとか寂しいとか思っていられる暇がなかった。
 だけど。
「気、遣わせてたんだよな。僕」
 ため息がもれる。
 イスカンダルには、もっと違う戦略があったのかもしれない。だが彼は非力な自分に合わせて戦い方を変えたのだ。
「ごめんな、ライダー……」
 今でもずっと、それは申し訳なかったと思っている。
 聖杯戦争が終わった直後から、ウェイバーに多くの依頼が舞いこんだ。一番大きな仕事はケイネス・エルメロイの身体に遺る魔術刻印の回収だ。彼の遺体は聖堂教会が保管していたが、立会人として何度もウェイバーは呼び出された。
 九代続いたアーチボルト家にとって、ケイネスが持つ魔術刻印はなんとしても取り返さなければいけない財産であり、生命だった。
 だがケイネスの魔術回路は完全に破壊されていて、通常の方法では刻印を回収することができない。ロンドンの魔術協会本部から専門の魔術を執り行える特殊な魔術師が来て、刻印が仮の概念遺体に転移され、ロンドンに運ばれていった。
 腐らない遺体と幾度も向き合い、ウェイバーは不思議な気持ちになっていた。
 先生は魔術師じゃなくなっていたのか。
 そんなことがあるなんて信じられない気持ちだった。
 僕をあんなにバカにしたのに。でも先生は魔術師として素晴らしい資質を持っていたのに。
 神童と呼ばれたケイネスも聖杯戦争では赤子も同然だった。どうして彼が死んだのか、断片的に知るにつれ、ウェイバーは聖杯戦争の真の恐ろしさに気づいていった。充分に恐ろしいと思っていたが、彼が体験したものとは全く違う恐ろしさがあったことを知ったのだった。
 余のマスターたる男は、余と共に戦場を駆ける勇者でなければならぬ。
 ライダーの言葉が今更のように染みこみ、彼と戦車を駆ったことが誇らしく思えるのだった。


 翌日、ウェイバーは少しきちんとした服装をした。夏だが、薄物の長袖カーディガンを着て肌を隠す。足元もきちんとしたスラックスを履き、革のスリッポンに足を通した。派手な色は着ない。これから死者に会うのだから。
「いってきます」
「はーい」
 家を出る時も緊張はした。
 聖堂教会から立ち会いの呼び出しが来たのだ。ケイネスの身体から最後の刻印が取り出される。その後は遺族の希望により、遺体がイギリスに空輸される。ウェイバーが立ち会うのも、これが最後になる。
 冬木教会は冬木の旧市街と新市街の境目の辺りにあって、外からはごく普通に見えた。
 だが内部には聖堂教会第八秘蹟会支部が設置され、アサシンのマスターだった言峰綺礼が仕切っている。周辺にはまだ業火に焼かれたままの地区が残り、凄惨な雰囲気が漂っている。それはまるで、この教会に棲む者たちを象徴しているように思えた。
 何故なら、言峰綺礼をウェイバーは信じていない。
 薄気味悪いのだ。
 理屈でなく、避けたいような気がする。
 何も知らずに彼のミサを聞く人々にウェイバーは感心せざるをえない。
 それに本来であれば、こういった立ち会いは冬木を管理する遠坂家がやるべき仕事だと思っていた。
 それでもケイネスに関して、自分には責任の一端があると感じていたので──ケイネスが聖杯戦争のために用意した聖遺物を奪いとったのは事実なので──ウェイバーは立会人を引き受け、最後まで責任を全うしようとしていた。
 その日も奇妙な儀式を目撃した。
 ケイネスの身体から透けて輝く刻印が浮き上がり、概念遺体に移植される。ニュートラルな素体に移された刻印は半永久的に保存でき、アーチボルト家から依頼があれば、しかるべき人物に引き継がれることになる。
「これで最後です。この遺体には刻印は何も残っていません」
 魔術師の言葉にウェイバーは頷いた。
「分かりました。確認します」
 ウェイバーの目にもケイネスの身体には何の魔術痕跡もなかった。強いて言えば、壊れた魔術回路の奇妙な片鱗は見えた。だが、それだけだった。
 ウェイバーは確認書類を受け取り、立会人のサインをした。
「これでいいですか」
「はい。結構です。お疲れ様でした」
「ありがとうございました」
 これでいいのだろうかと悩みながら、ウェイバーはお辞儀した。
 その後、ウェイバーは冬木教会の一室に呼び出された。魔術協会の事務員が来ており、ウェイバーに何枚かの書類を書かせた。
 それは世界有数の霊格を誇る冬木領域において、ウェイバーの活動を認めるための書類だった。一般的に厳密な手続は省かれることが多いのだが、冬木は聖杯が設置された特別な土地で、不審な魔術師の立ち入りを遠坂家が嫌っていた。魔術協会からも比較的厳しい管理が求められている。そこに魔術協会が多大な譲歩をしても引き留めたいウェイバーが拠点を維持するとなると、少々ややこしいことになるのだった。
「あとは、こちらもサインを」
「はい。血判が必要ですか」
「これは要りません」
「よかった」
 ウェイバーが全ての書類にサインすると、扉の外で声がした。
「さあ、凜。こちらで御挨拶をしなさい」
 怖いほど深い声は一度、聞けば覚えている。あいつだ。
「言われなくても分かってるわ」
 どう聞いても小さな女の子の声だった。
 ウェイバーはぎょっとして顔を上げる。
 すぐに扉がノックされた。
「はい、どうぞ」
 ウェイバーが応えると、扉が開き、大柄な日本人神父が現れた。髪を伸ばし、一見、穏やかな笑顔を浮かべているが、その目は笑っていない。ウェイバーはいつも寒気がする。
 アサシンのマスターだった言峰綺礼だ。
「こんにちは、ライダーのマスター」
「どうも。お邪魔してます」
 ぶっきらぼうなウェイバーに構わず、彼は背後から少女を一人、招き入れた。
 どう見ても初等部エレメンタリィの女の子だった。長い髪を二つに分けて頭の上で結わえていて、鮮やかな赤いワンピースを着ていた。くっきりした目鼻立ちは強い意志を感じさせ、その目は燃えるように輝いている。
 なんて強い魔力なんだ。
 おかしな話だが、ここにいる言峰綺礼より、自分より、魔術協会からの派遣員より、遙かに上の存在だった。
 彼女が入ってきた瞬間、この部屋は彼女の空間になったと言ってもいいほどの圧力があった。
 彼女はつかつかとウェイバーに歩み寄った。
「初めまして。お父さまから冬木の管理者セカンドオーナーを受け継ぎました。遠坂凜といいます」
 ウェイバーは唖然とした。
 まさか、こんな小さな女の子が……父を亡くしてしまったのか。
 遠坂家は聖杯の設置に関わった『始まりの御三家』の中でも抜けた存在だった。第二魔法の使い手ゼルレッチの弟子であり、魔術師の世界では『魔法使いの弟子』として有名だった。
 ウェイバーはロンドンで見た魔術家門のエリートたちと同じように、遠坂家にも何の苦労もないのだろうと思っていた。全てが順調に運ばれ、恵まれた存在なのだろう、と。当然、その跡継ぎにも苦労らしい苦労があろうとは考えていなかった。
「どうも、初めまして。ウェイバー・ベルベットです」
 ウェイバーは立ち上がり、差し出された小さな手をそっと握った。
 僕が先生の立会人に選ばれたのは当然だ。
 こんな小さな女の子に何度も遺体を見せられるか。こんな小さな女の子が、遠坂ほどの名門を支えていかなければならないのか。
 凜と呼ばれた少女は真っすぐにウェイバーを見つめた。
「オーナーとして貴方の活動を許可します、ミスタ・ベルベット。極端に大きな術を施行しないかぎり、当方への届け出は無用です。こちらで全て管理をしますので」
「僕は君ほど魔術が使えないから」
 ウェイバーが言うと、凜はきょとんとして見上げた。すると年相応の可愛らしい少女だと分かった。
「貴方はケイネス・アーチボルトの弟子でしょう」
「時計塔では彼のクラスにいたけど、弟子とは言えないかも。僕は、ある人に忠誠を捧げたから」
 凜が不思議そうに目を見張る。すると後ろから綺礼が少女の肩に手をかけた。
「さあ、凜。御挨拶が終わったら出なさい」
「え」
 凜は明らかに動揺していた。それから髪を浮かせてウェイバーを必死に振り返った。
「あの、あの、お父さまと」
 ウェイバーは、連れ出されようとしている凜を、膝に手をついて覗きこんだ。
「ごめんね。僕は遠坂の御頭首とは会ってないんだ。アーチャーとは話したけど」
「……そう」
 悄然として凜は連れ出された。ウェイバーは何を言っていいのか分からなかった。
 早くに親を亡くす心細さはよく分かる。
 あの子は親だけじゃなくて、先生も亡くしてしまったんだな。
 それは魔術の世界では大きなハンデだ。
 後ろ盾のない辛さはウェイバーに染みついている。
「魔術協会の手続は以上で終了です。後は別室で第八の書類にサインして下さい。あちらはあちらで、いろいろと記録が必要なようですから」
「分かりました」
 ウェイバーは事務員に案内されて、教会の中の別室に連れていかれた。
 小さな部屋で書棚や机があり、書斎のような空間だった。
「こちらでお待ちください。私はこれで」
「ありがとうございます。お疲れ様でした」
 ウェイバーが会釈すると事務員がちょっと微笑み、扉を閉めた。
 ほどなく、ノックの音がしたのでウェイバーはそちらを向いた。
「どうぞ」
 無言で入ってきたのは背の高い金髪の青年だった。ひょろっとしているが体格は良く、黒い神父服がオートクチュールのスーツのように見えた。
 貴族みたいだ。
 ぱっと頭に浮かんだ。
 彼が顔を上げた時、そのあまりにも眩い秀麗な顔立ちに我が目を疑った。磨き上げた紅玉の瞳、大理石のごとく褪めた肌、何より浮世離れした美貌──髪を下ろしていて、判断が遅れた!
 ウェイバーは反射的に部屋の奥に走った。
 扉は一つ、彼の後ろ。逃げ場はない。
 窓を割る!
 心に決めて肘打とうとした時、
「く、ははははは! 何故、逃げる。とうに戦は終わっておろうに」
 彼が嗤う。
 何故、何故、彼がいる! 聖杯戦争は終わったのに! 冬木の街を焼き尽くして。
「英雄王、なんで、あんたは消えてないんだ!」
「受肉した」
「はあああああ!?」
 その声は未遠みおん川の橋の上で聞いた美声に他ならず、彼が本物だと信じざるをえなかった。
 ウェイバーは覚悟を決めて振り返り、世界最古の英雄と睨みあう。彼の紅玉の瞳は奇妙な緩さがあって、何を考えているのか読めない。
「その望みはあの人のものだ。どうして、あんたが受肉してるんだ」
「最後まで残ったのでな、なんぞ褒賞ではないか」
 アーチャーたるギルガメッシュが身体を折って笑っている。ウェイバーには恐ろしい光景でしかない。
 ギルガメッシュが笑いを消してウェイバーに視線を投げる。彼はまだ何もしようとはしていない。まだ大丈夫だ。ウェイバーは息を整える。無駄に焦って、本当に必要な時に反射が遅れると、あの人の命を守れない。
 僕は生きなきゃいけないんだ。
 バビロンで死んだ、あいつの分まで。
「あんたが聖杯で叶えた望みが、それなのかよ」
 それでも持ち前の負けん気で言い返すと。彼は細い金髪を燦めかせて意味ありげにウェイバーを見下ろした。
「さあな。オレにも分からぬ。世界を統治し、妻を娶らんとてな。そのように定めが回ったのだろう」
「何言ってんのか、分かんないよ」
 ウェイバーは頭をかかえたい気分だった。ギルガメッシュは静かにウェイバーに歩み寄ってきた。
「綺礼の奴腹めによればな。聖杯は七人全ての英霊をくべねば発動せぬというのだがな」
「!」
 ウェイバーは知らなかった。
 もっと言えば、聖杯をとったとしても、具体的な望みがあったわけでもなかった。聖杯を勝ちとりさえすれば、皆が自分を認めてくれるという単純な動機だったし、それ以上のことを考えていたわけでもなかったのだ。
 もちろん、イスカンダルという強力な英霊を手にした時点で、彼に逃げ場はなくなったわけだが。
「……あれ、おかしい……あんたが最後? 英霊は六人しか戻っていない。それなのに、なんであんなことが?」
 第四次聖杯戦争の最後は凄惨なものだった。
 小聖杯が設置されていた冬木市民会館から出火。それは瞬く間に冬木の街の広範囲を焼きつくし、多くの死傷者が出た。一般には単なる不幸な失火ということになっている。だが、その実態は、聖杯戦争がもたらしたものだった。第八の報告書でも戦争終盤は具体的な記述に欠け、詳細は判らない。少なくとも聖堂教会と魔術協会は事実隠蔽のために動いたということだ。
 聖杯に何かが起こった。
 イスカンダルの言った通り、万能の願望器なんてものじゃない。
 あれはいったい、何なんだ──
 ウェイバーの頭は猛烈な勢いで回転していた。目の前の英雄王に感じる生命の危機と、脳裡に残る征服王の言葉──件の冬木の聖杯とやらが本当に噂通りのシロモノだって保証はどこにもない──それは正しかったんだ。
 魔術による構築物である以上、何らかの方向性はあったはず。
 起動しないはずの術が起動していた可能性。
 誰か●●何か●●に反応した?
「あれは、誰の」
 愕然と顔を上げるウェイバーにギルガメッシュが微笑んだ。
「聖杯とは何ぞや」
「そんなの、僕に分かるわけが」
 ギルガメッシュが柔らかく赤い瞳を伏せるようにしてウェイバーを覗く。
「そなた、魔術理論の専門家だそうだな」
 ウェイバーはぐっと警戒心を強めた。僕のこと、調べたのか? なんで。
 ギルガメッシュは穏やかに見つめているだけだ。妙に近くに立っていると思っただけで、それ以上ではない。今のところ、この古き王は暴力に訴えるつもりはないらしい。
 そういや、聖杯問答の時も意外と大人しく話してるだけだったもんな。
 だが彼の機嫌を少しでも損ねれば、あの腕が飛び、自分の生命はなくなるだろう。
「なんだか分からないうちに、そうなったんだよ。あんたと同じさ。聖杯戦争が終わったら、何もかもおかしなことになっちまった」
 ウェイバーにとって、時計塔や周囲の反応は意図したものだったはずなのに、素直に喜べることではなくなっていた。ケイネスに提出した論文のせいで魔術理論の俊英だと思われていることは知っていた。
 根拠がなさすぎんだよ。
 だったら最初から評価しろよ。さらに新しい理論を構築したわけでもないのに、今更おかしいだろ。
 ウェイバーには腹立たしいことだった。
「聖杯の魔術理論は理解できるのか」
「そりゃ、しかるべき資料があればね。あと、実際に聖杯を調べられれば完璧だけど」
 言ってしまって、ウェイバーはギルガメッシュをちらりと見上げた。
 彼はいっそ妖艶に微笑みかけた。
「なあ、聖杯の次の起動は六十年後だそうだが、もっと早めることはできると思うか」
「理論的には可能なはずだね。どんな術でも効率を上げることはできるはずだから。ただ大きな魔術になればなるほど、要求される魔力も高まる。聖杯はアインツベルンと遠坂、マキリの術が合わさってるわけで、解析も難しいと思うし、一人で全てに対応するには五重複合属性アベレージ・ワンの魔術師が必要だと思うけどさ」
 得意分野の話で思わず、すらすら喋ってしまい、ウェイバーははっと黙った。
「なあ、ライダーのマスターよ」
 ギルガメッシュがにこっと笑う。それは背筋が寒くなるような表情だった。
「そなた、聖杯を起動させたいとは思わぬか」
「あんな体験は二度とごめんだね」
「真にそう思っておるか」
 薄暗く、妖しい優しさが赤い瞳に宿っていた。
「そなたの君に会いたいとは思わんのか、ライダーのマスターよ」
「!」
 それを全く思っていないとしたら、それは嘘だ。
 会いたくないなら、死した後、彼の『王の軍勢アイオニオン・ヘタイロイ』に参入することなど夢見ない。毎日、彼を思い出したりするわけがない。
 今だって思うよ。
 うるさくて滅茶苦茶で、一緒にいると落ち着く暇もないけど、あいつがいないのは寂しいなって。
 僕は独りになったんだって。
 言葉の出ないウェイバーの耳元にギルガメッシュが囁いた。
「なあ、オレが情報を提供してやる故、聖杯を解析せよ。そして、そなたの君を呼び寄せればよいではないか。そなたほどの忠臣がおれば、奴も必ず応えるであろう? 悪い話ではあるまい」
 ウェイバーは鉄色の瞳を眇めて、世にも稀なる紅玉の瞳を睨み返した。
「あんたは勘違いしている」
「何を」
「あの人は聖杯の真偽を疑っていた。次の招集には応えない。ましてや僕が呼んだら、絶対に来ないだろうね。僕が戦争向きじゃないって、あの人ほど知っている人はいない。あの人はあんたと違うんだ。聖杯なんかに望みをかけない」
「過ぎた雑言ぞ、小僧」
 ギルガメッシュは肩をすくめて背筋を伸ばした。
「まあ、よい。許す。まずは署名せよ」
 ギルガメッシュは本当に書類の束を持っていた。彼がひらひらと分厚い紙束を揺らめかせる。
「これに全て署名せよ」
 ウェイバーは震える手で書類を世界最古の英雄から奪いとった。間違いなく聖堂教会の書面だ。特有の透かしが入った特殊な紙を使っている。
「なんで、あんたが聖堂教会の使いっ走りをやってるのさ」
「世を渡っておるだけよ」
「あのさ、確認したいんだけど」
 ウェイバーは書類を握ってギルガメッシュを睨み上げる。彼は面白そうに唇を歪めてウェイバーを観察している。
「申せ」
「ここで読む間、僕を殺そうとなんてしないよな」
「平和の時に武器を持ち出すほど無粋ではないわ。そなたが朝貢の品を持つというなら尚更な」
「あんた、ホントに話が飛ぶな。とにかく、聖堂教会の書面に確認なしでサインはできないから! 僕が読んでる間、何もしないでくれよ。あの人の命があるんだから」
 するとギルガメッシュは見たこともない淡い表情を浮かべた。
「そなた、つくづく忠義者よのう」
「羨ましいのか。世界最古の英雄ギルガメッシュともあろう者が」
「ふん」
 彼はウェイバーの隣に立ち、肩をすくめた。
神殿宮ギパルは魑魅魍魎の棲む迷宮ぞ。そなたのような気の好く小僧が生きていける場所ではないわ」
「……きっと、世界中にあんたの話を聞きたいという研究者がごまんといるんだろうけどね」
オレが話したいのは、そなただけだ。今のところはな」
「!」
 ウェイバーはサインしかけた手を止めた。
「さっきから、あんた何が言いたいんだ。おかしすぎるぞ。橋の上のあんたとは別人だ」
 それは、ぼんやりとした危機感に近かった。
 イスカンダルと過ごした後で気がついた。
 勘というか、論理が飛ぶ瞬間があるのだ。ぱっと頭に浮かぶ時がある。危険な予感が──
 ギルガメッシュがデスクの椅子をぽんと叩いた。
オレの言葉を信ぜぬとは。忠義と見て許してやるが、信義の証だ。座るがよい」
「……じゃ、まあ」
 ウェイバーとしても、この厄介な王と事を構えたいわけではない。向こうが牙を剥かないと約束するのなら、その状態を少しでも長く保つ必要がある。
 もうサーヴァントとは言えないわけだろ。
 じゃあ、こいつの能力も前とは変わってるかもしれないってことか?
 ちょっと、こいつは。
 心が躍るな、ライダー。
 ウェイバーは覚悟を決めて椅子に腰を下ろした。これが何かあった時、自分を殺しかねない行為だとは理解していた。それでも座ったのはギルガメッシュを試したかったからだ。彼が本気なら、どこへ逃げても、何を言っても自分は殺される。ならば、最初に賭けておくべきだ。
 それでもウェイバーは持ち前の集中力ですばやく書面を読み込み、必要な場所にサインした。第八とは今後も連絡を保つことになる。これも魔術師としては異例で、ウェイバーは自身で思う以上に特殊な存在になりつつあった。
 窓口が綺礼ではなく、ヴァチカンの聖堂教会本部に変わることだけが救いだ。
「そなた、理論家として目指しておる先はあるのか」
「そりゃ革新的な魔術理論を打ち立てられれば、いい話だけどね。ずっと僕は言ってるんだけど、時計塔の中ではまだ評価されていないだけさ」
「ならば人目を惹く業績を上げてから、そなたの理論を発表すればよいではないか」
「なんだよ、急に」
 突然、ギルガメッシュが心の中に入ってくる気がした。
 彼の穏やかな声が、赤い瞳の透ける光が、意識の中に──ウェイバーはすばやく紙をずらしてペンを走らせる。
「あんたの助言なんて気持ち悪いよ」
「そうでもあるまい。世界を統べた王の言葉ぞ。耳を傾ける価値はあるであろう。聖杯に頼らずして、過去の英霊を呼び出せたとしたら、どうだ?」
 ウェイバーは今度こそ、ギルガメッシュを真っすぐ見上げた。
 瞬間、彼が椅子の背に立ち、すっと両手でウェイバーを閉じこめた。
「皆が驚くであろうな。あの奴腹めが三家束になって成し遂げし偉業を、そなたが一人で達成せしめたならば」
 確かに、それでよかったのかもな。最初の僕の目的だったら。
「あのなあ」
 ウェイバーはぞっとする気持ちを抑えて声を強く出した。
「僕の魔術回路は、そんな大きな術を行使できるほど優秀じゃないんだよ! あんたが何を考えてるか知らない。また聖杯戦争がしたいのなら、他を当たればいいだろ」
オレの言葉を忘れたか」
 頭の真上から彼の声が降る。
「武器など要らぬ。必要なのは理論だけだ。そなたが行使してみせる必要もない。方法があれば、誰かが結果を出すだろう。そのとき、そなたの正しさが証明される。それで充分ではないか」
「小さいよ」
 ウェイバーは呟いていた。
 小さいわッ!
 はたかれた瞬間を忘れない。
 戦いに賭ける大望が、おのれの沽券を示すことのみだと? 貴様、それでも余のマスターか?
「まったくもって嘆かわしい」
 紙にペンを走らせつつウェイバーの口をついた呟きに、ギルガメッシュが咽喉を震わせて笑った。
「あの野蛮人の物言いによく似ておることよ」
「僕の前であの人を侮辱するな」
 ウェイバーは肩を浮かせてギルガメッシュを振り返る。
「いいか。僕にとっての魔術理論は、あんたが『王の財宝ゲート・オブ・バビロン』から打ち出す宝具のようなものなんだよ。それ自体には意味がない。使って初めて意味がある。それを実践するのは、あくまで僕だ。魔術は自らの研鑽の結果としてのみ価値がある。それが魔術刻印の本当の意味なんだ。時計塔の連中は遺産と勘違いしているようだけどね」
 ウェイバーは最後の書類にサインして立ち上がる。紙の束を整えてギルガメッシュに差し出した。
「全部サインした。法王庁聖堂教会本部ヴァチカンに提出したか、後から確認するから。僕の署名を悪用しようとしても無駄だ」
 ギルガメッシュは無言で受け取った。
「あんたが何を考えていようと、僕はあんたに仕えない。僕は征服王イスカンダルの廷臣だ。あんたはこの世でただ一人、それを知ってるはずだけど」
「ふふ」
 ギルガメッシュが紙の束に唇を寄せて笑った。
「よかろう。この身の三分の二は神の血だ。いくらでも時間はある。待とうではないか」
「それがいいよ。英雄王。僕は行くから」
「息災にな、小僧」
 ウェイバーは流石にギルガメッシュを振り返った。彼は穏やかな赤い瞳で微笑んだ。
「変わるでない。そのまま生きよ」
「もちろん。あの人はいつも僕の心に一緒にいる。じゃ」
 ウェイバーは冬木教会を出た後、座りこみそうになった。泣きたいような衝動がこみ上げて、変な感じだった。だが、それは初めてのことではなかった。聖杯戦争の日々、毎日のように生と死を行き来した。緊張と過労、脱力。その繰り返し。
 次はイギリス。
 半年以上も外国にいたのは初めてだ。
「でも、あっちの方が外国みたいな感じだな、今は」
 ウェイバーは焼け跡の残る街を抜け、深山みやまの丘を登っていった。


 三日後、ウェイバーはイギリスへと旅発った。本来であれば、やっと帰還することになるが、ウェイバーの感覚では再び時計塔に立ち向かうという気持ちが強かった。
 マッケンジー夫妻はウェイバーが日本を、冬木の家を離れることを寂しく思っていた。それをウェイバーも分かっていた。異国である日本を気に入り、移住した夫妻。だが、それは身内と疎遠になることを示していた。言葉の壁もあったのだろう。マッケンジー夫妻の実の孫は日本に来たことはないのだそうだ。
 だから彼らはウェイバーを日本で見つけた孫として可愛がってくれる。必ずクリスマスに帰ってくることを条件にウェイバーの留学を認めた。
 多くの手続をこなしながら、モバイル片手の移動。ウェイバーは典型的な留学生の様相でイギリスに帰国した。機能的な日本の空港に慣れてしまい、ヒースローでの事務手続の遅さに苛々し、地下鉄チューブの汚さに唖然とした。
「これが当たり前だったハズなんだけどな」
 我ながら茫然とする自分の変化だ。
 そしてウェイバーは時計塔の前に、どうしても訪ねなければいけない場所があった。
 先方が『時計塔より先に』訪れるように指定してきたので、ウェイバーは仕方なくロンドンにホテルをとり、荷物を預けた。
「さて」
 ウェイバーは携帯の地図を片手にロンドンのタウンハウスを目指す。
 流石はイギリスきっての魔術家門アーチボルト家で、ケンジントンの閑静な住宅街に館を構えていた。立地を考慮しても、貴族の持ちものだったことは間違いなく、住む世界の違いを見せつけられた気持ちだった。堅牢にして豪壮なバージェス様式の館を目にして、ウェイバーは歯ぎしりしたくなったのと同時に、何故あれほどケイネスのプライドが高かったのか、理解した。
 こんな館で育ったら、ああいう人間になるのも当然かもな。
 自分だって、育つ環境が違えば、全く違う性格になっていたかもしれない。
 今のウェイバーにはそう思える。
 あの豪放磊落な征服王に引っ張られて、生来以上に積極的になっていた自分を思うと、そう思わざるをえないのだ。
 ウェイバーが門の前に立っただけで、重苦しい鉄扉が音を立てて開いた。
「……」
 忘れていた。
 これが英国、魔術師の世界。全ては時計仕掛けのように精密に組み合わされ、人知れぬ魔術の力が人の生活を動かしていく。その理論をこそ、自分は愛したのではなかったか。
「失礼します」
 ウェイバーが敷地に足を踏み入れた瞬間、何もかもが絡繰屋敷のように動いた。
 扉が開き、また閉まる。宙を舞うブラシが顕れ、客人の服装を整える。足元のマットが動き、ウェイバーを大して広くもない館の中を歩かず済むように運んでくれる。石造りの薄暗い館の中で、ウェイバーが通り過ぎる瞬間だけ、ぼんやりとした明かりが灯る。
 それらが走馬灯のように過ぎると、マットが美しい扉の前で止まった。
 重厚な樫の扉には隙間なく彫刻が施され、一族の栄光を示していた。蒸留器と生命の樹、一塊の水晶──魔術家門ならではのモチーフと言えた。
「ようこそ、ウェイバー・ベルベット」
 頭の上からピンと筋の通った女性の声が降ってきた。少し歳をとっている感じだ。
「入りなさい」
「失礼します」
 ウェイバーがドアを開けると、美しい空間がそこにあった。
 陽の降りそそぐ窓辺に燦めく蒸留炉が湯気を上げ、小さな虹がかかっていた。分厚い天鵞絨のカーテンが囲む空間は小さな書斎とサロンの中間のようで、猫足のテーブルにクリームティが調っていた。空気にただようアールグレイの香り。
 何よりウェイバーの目を奪ったのは、整然と空間に走る工房の結界であり、美しい術式の姿だった。
「……わあ」
 思わず見渡してしまうと、書斎の中心に座る老婦人が面白そうに笑った。
「あらまあ。見えるの」
「はい。素晴らしい。美しいですね。ケイネス先生の術式にとてもよく似ています」
「それはそうね。あの子はわたくしの息子ですもの」
「ああ」
 そのときになってウェイバーは気づいた。
 細面の彫りの深い顔立ち、淡い金髪、冴え冴えとした青い瞳。そして身体をとりまく澄んだ水の気配。老齢に差しかかった婦人の佇まいはケイネスに酷似しており、館と同じように整っていた。
「初めまして。ウェイバー・ベルベットといいます」
「存じていますよ。わたくしはスリーテン・アーチゾルテ・アーチボルト」
 Sleet/みぞれ? 変わった名前だ。
 彼女こそケイネス・エルメロイ・アーチボルトの母だった。つまり、たった一人の全てを懸けた息子を失ってしまった母親だ。
 ウェイバーは一度は必ず会って、謝らなければならないと思っていた。
 マーサの穏やかな愛情、また寂しげな横顔を見るにつけ、ますますその思いは強くなった。
 男には逃げてはいけない時があるのだ。
「僕は、謝らなければならないことがあります」
 ウェイバーは顔を上げているつもりだったが、やはり視線は下がってしまった。ベルギー織りの繊細な絨毯の模様が見えていた。
「ケイネス先生が用意していた聖遺物を奪いとりました。あのとき、僕は」
「知っていますよ。あの子が貴方を授業で吊るし上げたということは」
 打たれたようにウェイバーは顔を上げた。
 長く時計塔を留守にしたウェイバーは知らなかった。
 時計塔では聖杯戦争が進むにつれ、学内全てがその話で持ちきりになった。ことに未遠みおん川で行われた異界の生物との戦闘は大変な注目で、そこで活躍したウェイバーは一気に人気を上げたのだった。
 当然、彼が参戦した経緯は真偽も定かでない噂が入り乱れたが、あの日、ウェイバーの論文がケイネスにこき下ろされたことは皆の記憶に新しかった。
 それは尾鰭おひれをつけ、魔術家門の親たちのもとに届いていたというわけだ。 
 老婦人スリーテンは淡々として、その感情は窺いしれなかった。
「あの子が聖遺物の管理を怠ったことが原因です」
「いいえ。悪かったのは時計塔の事務員だと思います。先生は本人受取の証明をつけていました。それを僕に渡したのは事務員です」
「そこが愚かだったと言っているのです」
 スリーテンの鋭い口調にウェイバーは姿勢を正してまっすぐ立った。そうさせるものがあったのだ。
 彼女の前で茶器が勝手に踊り、ウェイバーのカップに紅茶を注ぎ、湯気の立つスコーンがサーバーで小皿に取り分けられた。いずれも自動応答の魔術で行われていた。
「魔術師たる者、聖杯戦争に参戦すると決めた瞬間から、何事も怠ってはなりません。絶対に失ってはいけないものなら、何故、自分で直接取りに行かなかったのです。そうでなくとも、荷物に保護の魔術を施すことはできたはずです。自分以外の手に渡った瞬間、燃え落ちるようにさせるのは常識でしょう。全て、あの子の落ち度です」
 ウェイバーは言葉が出なかった。
「貴方は自分が得たチャンスをつかんだだけです。座りなさい。立ってする話ではないわ」
「はい。お相伴します。どうも」
 これでよかったかな。
 普段とは全く違う会話にウェイバーも戸惑い気味だ。
「貴方は謝るつもりで来たようだけど、わたくしは貴方に礼を述べねばなりません」
「何を」
 これもウェイバーには意外すぎる話だった。
「貴方はあの子の最後の所業について、知らないと証言して下さった。どれほど私たちの心が救われたでしょう」
 婦人が丁寧にスコーンを割った。
「食べ方を知っている? 先にフルーツかしら、クリームかしら」
「う」
 ウェイバーは慌てて温かいスコーンを手にとった。ぱかっと割って、スプーンをとる。
「僕はジャム派です」
「宜しいわ。お代わりしてもいいわよ」
「ありがとうございます」
 時計塔の神童と謳われたケイネス・エルメロイ・アーチボルト。魔術師の最上層にありながら、彼は聖杯戦争の最中、全ての魔力を失った。追いつめられたケイネスはせめて令呪れいじゅを手に入れようと監督役・言峰璃正に接触。そこで諍いがあったことは息子・綺礼の証言から分かっている。
 魔力を失ったケイネスが手にとったのはハンドガンだった。
 魔術師の世界において、魔術に拠らず戦うのは、ありえないほど恥ずべき行為だった。
 誇り高い魔術師であれば、魔術を戦わせ、決着をつけるべきで、しかるべき魔力を持たない者──ウェイバーがここに入ると思われていることに変わりはない──は戦いに参じるべきではないのだった。
 ケイネスは璃正を銃で殺害、その後、セイバーのマスターだった衛宮切嗣と衝突。遠距離射撃で撃たれた後、魔力を帯びた刃物で頸動脈を切断して殺された。
 ウェイバーは詳細な経緯を最近、知った。
 だから第八秘蹟会の聴取にも、素直に知らないと答えただけだ。
 だが、よりにもよってイギリスきっての秀才が破れはて、さらに家門を穢す凶状に至ったことは燎原の火よりも早く、狭い魔術師の世界に燃え広がった。
「聖杯戦争に参じる者として、諜報活動をしていないわけがありません。貴方はあの子の最後の悪あがきを見て見ぬ振りをして下さった。第八が全てを明らかにしてしまったけれど、本来であれば、監督役など存在せず、魔術師同士で戦うのが聖杯戦争です。であれば、貴方が口を噤んで下さった時点で全てが隠蔽されていたでしょう。トオサカに口止めは必要だったかもしれませんが」
 いや、マジで知らなかったんだけど。
 ウェイバーは困ったのでスコーンを口に入れた。ほろほろと崩れるスコーンは美味しかった。
「どう。我が家に代々伝わる、本当のスコットランドのスコーンですよ。ロンドンとは味が違うでしょう」
「はい。美味しいです」
「魔術師でありながら銃なぞ使うとは。恥ずかしいにもほどがあります」
「僕はそうは思いません」
 ウェイバーはスコーンを呑みこんでから顔を上げた。
 スリーテンが透ける青い瞳でウェイバーを見つめ返す。
 ウェイバーはそれがセイバーに似ていると思った。美しい少女だったアーサー王。あの目は信念で輝いていた。イスカンダルとは違う、王の気迫を感じた。そんな空気が伝わってくる。
 ウェイバーも自分の信念を枉げる気はない。
 そのために魔術の本場ここに戻ってきた。
「魔術師の世界は、一般人から見れば非常識なほど特別です」
「ええ、そうですよ。私たちは選ばれた人間なのですから」
 魔術師の世界では常識と言っていい選民思想だ。ウェイバーはこれもどうかと思っている。優れた才能や能力を認めてほしいのであって、ただ魔術師であるというだけで優れていることにはならないはずだ。
「でも、そんな魔術師の世界の常識からもかけ離れたことが起きました。毎日のように。想像もできないほど恐ろしい体験や困難の連続です」
 スリーテンは口を挟もうとしなかった。ウェイバーはなるべく声を抑えて語りつづけた。
「先生は、魔力を失っても戦いつづけようとしたのだと思います。できることをして、そこから得られる最上の結果を手にしようとしただけです。たぶん。魔術が使えないことを先生が認めるのは大変だったはずなのに、迷わず銃を手にとったなら、それは、彼が諦めない男だったことを示します。僕は、そこは尊敬すべきだと思います」
 そう。自分とケイネスに大きな違いは無かったのだ。
 スタートラインは違った。かなり大きく。
 だが戦争が進むにつれ、立場は逆転していったとさえ言える。
 そこには稀代の征服王の戦略と、衛宮切嗣が名の通り、戦場を切り裂いていったことが大きく働いている。決して自分の手柄ではない。だが結果を手にしたのは自分なのだ。
「時には監督役を殺すことさえ選択肢になる。それが聖杯戦争です」
 ウェイバーの視線の先でスリーテンが微笑んだ。
「あの子はねえ、負けず嫌いで。本当に負けず嫌いで。どんなに格上の魔術師が相手でも、決して負けを認めようとはしませんでしたよ。小さい頃からね。あの子はたゆまず修練を積んだのです。あの子の魔術回路は優秀でした。それは磨いたからこそ光るのです。努力のない天才など存在しません。貴方と一緒ね」
 ウェイバーは目を見開いた。
 賞められるとは思わなかった。それも自分をバカにしていた頂点の魔術師の母親から。
 魔術師の世界は血統主義で、結果がどうであれ、ケイネスという天才を産んだ時点でスリーテンもまた稀有なる人物と評価される。優れた個体を排出したスリーテンの実家は優秀な母体を提供する血筋として、魔術師の間で厚遇されるようになるのだ。
 そっと彼女がカップを揺らすと遠い異国の香りがした。
「わたくしは悔しくてならないのです」
 スリーテンが語り出したのはウェイバーの予測とは違う内容だった。
「聖杯は魔術師が作りだした装置の中でも、現在の最高峰と言っていい。それは認めざるをえません。しかし、あれを設置しえたのはアインツベルン、マキリ、トオサカ。いずれも我らが英国、マーリンから続く正統なる血統の家門ではありません」
 ウェイバーははっと歯を食い締める。
「あの子は英国が世界最高の魔術の本場であることを示すために参戦しました」
 スリーテンが困ったように首を傾げた。
「わたくしたちは間違っていなかったのです。戻ったのは貴方ではありませんか。我らが英国の魔術師です。トオサカでもマキリでもアインツベルンでもない。魔術師殺しが何だというのです。結局、聖杯をとることもできない場末の男だったではありませんか」
 ウェイバーはいろいろと反論したいこともあった。
 彼女の拘っていることは、それこそ『小さい』話だ。
 だが、それは振り返ってみるべき事実でもあった。自分たちが劣ってしまったのは何故なのか。考えるべきだし、改善していくべきなのだ。
「あの子のしたことは無駄ではなかった。わたくしはそう思いたいのです。貴方はわたくしの希望です」
 スリーテンが手を伸ばしたので、ウェイバーは軽い気持ちで握り返そうとした。和解の握手だと思ったので。左手を出してきたから、彼女は左利きなんだと思った。ウェイバーは合わせて慣れない左手を出した。
 だが、手が触れた瞬間、ウェイバーが想像したこともない衝撃が身体を貫いた。
「あ、ああああ」
「ケイネス亡き今、アーチボルトの当主はわたくしです。どの刻印を誰に継承させるか、決めるのは、わたくしです。この刻印こそ、あの子の非凡さを証明してくれるものなの。誰かが引き継がなければならない魔術。そして磨きつづけなければ」
「……」
 ウェイバーは激痛のあまり、目を閉じることができない。声にならない絶叫を上げて、硬直しているしかない。全く自分とそぐわない危険な魔術が身体の中に入ってくる。根を伸ばす。それを拒絶できる強靱な魔術回路がウェイバーにはなかった。
 思考は鋭く、独立独歩のウェイバーだが、魔術師としての素質は血が浅い故に柔軟で、簡単にたわめられてしまうものだったのだ。
「な、なんで……!」
「貴方の理論家としての素質を買っているのですよ。貴方は魔術回路の貧弱さに対して、行使できる術が幅広い。あの子が加えた改良を理解できるのは同等の天才だけ。この刻印から、あの子の魔術を解析して。属性ではない。貴方だけが適合する可能性を秘めている。大丈夫よ、死ぬ前に必ずサルベージすると誓うわ。あの子●●●が必ずやってくれるでしょう」
 貴方の言っていることは、ありえないことだ。
 ウェイバーの反論は声にならない。
 魔術刻印は本来、血族間で移行され、同系統の魔術鍛錬を繰り返すことで精錬される。代を重ねるほど血統に沿った仕様となり、他人には意味をなさない行使不能の術式に収斂していく。
 アーチボルトの九代も続いた刻印が、他人のウェイバーに適応するはずがない。
 一時的に他者に刻印を移植することはある。
 今回のケイネスからの刻印回収がまさに、それだった。だが、それは運ぶことが目的で、刻印の精錬や行使などもってのほか。それに運搬の際は、特殊な術で防御した専門の術師か、ケイネスに対応したように概念遺体を用いる。
 生きた他人に移植することなど通常はない。
 ましてや適合なんて。
 だが、ケイネスの刻印はウェイバーの身体にみるみる根を食いこませ、左手を食い潰していく。
 ウェイバーの魔力を栄養に、花咲こうとする刻印の力は凄まじかった。
「あ、……なんだ、これ。力が……」
 ウェイバーの身体がゆっくりとくずおれる。にっこり微笑むスリーテンが視界の上にずれていく。椅子から落ちて、床に倒れたことも分からなかった。
「これしか方法を思いつかなかったの。これ以上の醜聞を重ねれば、アーチボルトは終わりです。貴方には、なんとしても生きていてもらわなければ困るのです」
 そのあとウェイバーは記憶がない。
 目を覚ますとホテルにいた。
 貧相な医療システムのせいで、ホテルで唸って寝ているだけの人間はめずらしくないから──イギリスでの医療費は基本無料だが、範囲が決められている。治療に必要とされる医療行為のみが無料になるため、術後の静養は自費。そのため手術後、すぐに退院し、近くのホテルで療養する人が後を絶たない──ウェイバーのこともホテルの従業員がそれとなく看てくれた。
 高熱にうなされ、左腕の激痛が意識を遠のかせる。
 枕元のミネラルウォーターのキャップをはずそうとしても、腕が痛くて抑えが利かない。朦朧としながら、何回もやり直してやっと水を飲む。
 夜半、目を開くと、スリーテンがいた。
「頑張って。貴方を苦しめるために刻印を移植したわけではないの。全ては魔術の未来のため」
 彼女は優しくウェイバーを看病してくれた。頭を冷やし、手を握ってくれると薄く魔力が伝わった。それはウェイバーに不思議な幻想をもたらした。
「……ライダー」
 ウェイバーの手は夜中の空気の中を泳いだ。
 夜ごと戦車を駆り、街にくりだした思い出の中にいた。
 見上げるほどの巨軀と頭に響くほどバカでかい声。燃えるような赤毛がえらの張った顔の頭を飾って、ちょっと間の空いた目鼻立ちは思いがけないほど、気持ちのいい表情を浮かべる。あいつの目が子供みたいに、いつもキラキラしていたからだと思う。
「坊主、そら、見ろ。明るいではないか。信じられん。この電灯という奴はいつからあるんだ」
 イスカンダルは何に対しても興味を示した。それは熱烈な仕草をともない、時にウェイバーを呆れさせた。あのときもうるさいなと思いながら、それでも答えた。
「え、いつ? 百年くらい前かな」
「今は世界中のどこに行っても夜が明るくなっておるということか」
「だいたいね。真っ暗なとこもあると思うけど。インフラ弱い地域だと今でも停電当たり前だから」
「だが、ここは明るい。昼のようだ。素晴らしい」
 当たり前が当たり前じゃない時代に生きたイスカンダル。僕とは何もかもが違っていた。プロテインなんかなくたって筋骨隆々どころじゃなかったし、コンピュータなんかなくたって彼の頭は次々に情報を吸収した。
最大の美徳は人の役に立つこと●●●●●●●●●●●●●●だ。坊主、貴様もこんな発明をしてみるがいい。聖杯なんぞに頼るよりずっと、貴様の願いに近づくぞ。貴様の功績は世界に伝播し、皆が貴様を称えるであろう。何も戦の功績ばかりが名声を高めるわけではないのだから」
「お前がそれを言うのかよ」
 征服王と呼ばれたイスカンダルの言葉とは思えない。だが彼はあの茶色の瞳で電灯を見上げ、眩しそうに笑っていた。
「余は何も戦ばかりしておったわけではないぞ。要所に新しく街を築き、街道の充溢にも心を砕いた。征服した地の者たちがよりよい生活をできるよう、ちゃんと人の役に立つことを考えて、東を目指した。こんなものが、あの時あればなあ。皆、喜んだであろうに」
 アリストテレスの言葉だ。
 あいつの先生だった。
 人の役に立つこと──未来のための教育と、幸福の基準について。


 ウェイバーの意識がはっきりしたのは半月も経った後だった。
 とうに最初の学期が始まり、窓の外には秋の気配が忍び寄っていた。
 ウェイバーの左手は自分のものではなくなっていた。手首から肘にかけて燦めく魔術刻印が走り、鈍痛が消えることはなく、身体のだるさが抜けない。復讐のようにケイネスの刻印が魔力を吸い上げる。
「何なんだよッ……これ」
 イスカンダルよりたちが悪い。
 ウェイバーはベッドの中で左腕を押さえて、歯ぎしりした。

ウェイバー・ベルベット──時計塔の探求者-② 時計塔への凱旋 につづく

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