シアターコクーンの自由と不自由 -『プレイタイム』と松尾スズキ版『劇場の灯を消すな!』

 劇場に観客を入れて芝居を見せることが難しくなっている今、演劇人たちは、様々な方法で、新たなパフォーマンスのあり方を模索している。リモート演劇のように、オンラインツールの制約を利用して、新たな芝居を作る試みは、その一つだろう。

 多様な試みが存在する中、あえてそれらに共通する点を挙げるとすれば、劇場・対面・リアルタイムで芝居をできないことが、不自由ではない、と強調していることではないだろうか。

 映像配信でも伝わる、映像だからこそできることがある、新しい演劇の形が生まれるチャンス、アピールの仕方は様々だが、いずれも、現在の状況が(ポジティブとは言わないまでも)決してネガティブではないと主張している。

 しかし、こんな疑問が生じるかもしれない。不自由ではないと強調することは、不自由な状況をより強く感じさせるのではないか、あるいは、不自由ではないと強調する過程で、傍にある不自由さを見えなくしてしまっているのではないか。

 そこで、最近配信された2つのパフォーマンスを取り上げてみたい。

 1つは森山×黒木の『プレイタイム』、もう一つは松尾スズキプロデュースの『劇場の灯を消すな!』である。いずれも、シアターコクーンを舞台に、今の劇場で撮られたものである。生配信と録画など異なる点はあるものの、自由と不自由の表れにおいて好対照をなす。

 『プレイタイム』は、役者の演技も素晴らしいが、主役は、劇場の裏側から舞台上まで縦横無尽に動き回るカメラだろう。冒頭から、眠りについた劇場が目覚める瞬間を、息を潜めるように待ち、その時間を視聴者に共有させる。この作品では、役者も劇場の一部であり、台詞がスタッフのやり取りと混ざり合い、劇場全体の声となる。

 「プレイタイム」は、客席からは見えない裏側や上部を舞台とするという点で、通常の観劇や劇場の利用法では作れない同時に(映像でしか実現できないともいえる)、劇場でなければ撮れない。これらの点で、まさに、コロナ禍でしか撮れない、コロナ禍だからこそ撮れる作品だといえる。
(観客席の観客を風景の一つとして捉えている点も上手い)

 だが、だからこそ、「プレイタイム」は、冒頭に述べたように、今劇場や演劇が置かれた状況が、不自由ではないことを強調しているように思える(自由に動き回るカメラがまさにその表れである)

 これに対し、アクリル演劇と称する『劇場の灯を消すな!』では、歌も、芝居も、ダンスも、朗読も、すべてアクリル板の中で行われる。この演出は、皮肉や笑いをとるための仕掛けに止まらない。

 言うまでもなく、歌も芝居も朗読も、距離をとっていれば、アクリル板に閉じ込められた状態で行う必要はない。「劇場の~」では、不自由な状況に、更に不自由な仕掛けを重ねているのである。

 「劇場の~」は、まさに今我々が不自由な状況にあることを強調している。もっといえば、シアターコクーンの舞台を無駄遣いしているのである。これは、劇場は実は広くて奥深いと強調し、シアターコクーンを余すところなく映し出す「プレイタイム」と大きく異なる。
(ちなみに、「劇場~」では劇場の中を紹介するくだりもあるが、コントに回収される)

 では、「劇場~」の不自由さが示すものとは何か。
それは、どれほど不自由な状況でも、パフォーマンスはできるという意味での自由さである。

 これに対して、(以前のようには)できていないという見方もあるだろう。しかし「劇場の~」が見せてくれるのは、高い質のパフォーマンスを披露できるということではなく、質が低くても、狭い場所でも、そこで演技や歌を始めたら、それが演劇になるという自由さである。そこには、以前と異なる手法で、以前と同等、あるいは同等以上のパフォーマンスを見せようという気負いはない。

 できる、ではなく、(できていなくても)やる。
それがコロナ禍の劇場に希望を与えてくれるのではないだろうか。


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