『その手に触れるまで』☆☆☆☆-選び直せるという幻想

今回、ダルデンヌ兄弟が選んだテーマは、宗教である。しかし、本作が描くのは、原理主義の恐怖や、宗教の不寛容さではない。もちろん、イスラム教を不気味なものとして描くわけでもなければ、イスラム教を受け入れる欧州を、多様性を尊重する社会だと捉えているわけでもない。本作が描くのは、自分の生き方は、自らの意思で選ぶことはできず、ましてや選び直すことなどできないという、ひどく残酷な現実である。選ぶことができないというのが言いすぎであれば、ひどく困難であるというに止めてもよい。いずれにせよ、主人公の少年は、身動きがとれないのだ(以下、ネタバレあり)。
 周囲からみれば突然敬虔な信徒となった主人公は、自分自身で、自分の信じるものや行動を選択していると思い込んでいる。だからこそ、親に騙されていると言われると、ひどく反発するのである。では、教師の殺害が未遂に終わり、更生施設で過ごす彼はどうだろうか。殺意を秘めたまま、模範的な人間を演じている間、彼自身は、自分の行動を完全に制御し、周囲を騙しているつもりだろう。
 だが、農業体験やカウンセリングによって彼を変えられる考えている周囲も、彼自身も、自分の信念や行動を、自身で選択できると思っている時点で、幻想を抱いているのである。自分の生き方を自分で選び、間違ったと思えば選び直せるというのは、近代的な社会制度が前提としてきた考え方である。このような前提がなければ、様々な自由を認める意味がなくなってしまう。しかし、施設内でも礼拝の時間にこだわり、教師を殺害するという計画に執着する主人公が、自分を制御し、自由意思に基づいて選択できているかといえば、そうは見えない。では、彼を更生させようとする周囲の人間はどうか。彼を唆す導師や、緩やかな規範を受け入れるイスラム教徒は、本当に自分で選択しているのだろうか。
 主人公に思いを寄せる少女は、主人公から、イスラム教に改宗するよう迫られ、強制されるのは嫌だと拒否する。強制を拒否する彼女もまた、自分の信じるものは自分で決めたい、自分で選択できると信じている。彼が彼女を突き飛ばしたのは、改宗を拒まれたことよりも、自分自身は選択することを奪われているのに、彼女は、選択することができるように見えたからではないか。彼女からキスをされるときの彼は、遂に自分でキスを受け入れるかどうかを決めることができない。彼は何も選択できなくなっているのである。
 ラストシーンで重傷を負った彼の姿は、何も選べず、身動きのとれない彼の状況そのものである。本作が彼に最後に与えた選択肢は、そのままでいるか(死ぬか)、生き延びるかという選択肢である。凶器を、救いを求める道具に変えた彼は、決して凶行を自らの意思で断念したわけでもなければ、反省したわけでもない。助けを求めるという、偶然生じた選択肢に手を伸ばしたのである。救命という、非常事態下の行動が、何も選択できなくなった彼にとっての唯一の選択肢だった。このラストシーンが小さな脱出口を示しているのか、本当のどん詰まりを突きつけているのか、本作は、もちろん答えてはくれない。

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