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炭鉱から逃亡した朝鮮人をかくまった日本人

 1942年(昭和17)年11月末の夜だった。北海道阿寒村(現・釧路市)の我が家に父が男を担ぎ込んできた。男は朝鮮の人で、名は福山さん。近くの雄別炭鉱で働かされていたという。仕事は厳しく、同じ死ぬなら一歩でも故国に近い所でと覚悟のうえ脱走し、畑で動けなくなっていたところを助けてきたそうだ。
後日、駐在所のお巡りさんが彼の引き渡しを求めてきたが、父は「俺の家族だから、指一本触れさせぬ」と拒んだ。困っている人を放っておけない性分の父。それをよく知るお巡りさんとの間で阿吽(あうん)の了解でもあったのか、我が家でかくまう脱走者は3人に増え、気づけば14人の大家族になった。〔下略〕
(出典:『朝日新聞』「声」欄への投書、2021年4月17日付)

◎解説
上記の新聞投書の筆者は、北海道在住の88歳の方。脱走した朝鮮人と接していたのは8、9歳の頃となる。年齢から考えてだいたいの状況を理解した上での記憶であると見て間違いないだろう。
 雄別炭鉱は、阿寒村に坑口があった雄別鉱業所や尺別鉱業所等のほか、空知郡赤平町の茂尻鉱業所も有しており、いずれの職場でも早い段階から朝鮮人労働者を動員し、配置していた。茂尻鉱業所では1940年2月、雄別鉱業所では同年3月に朝鮮人労働者が労働争議を起こしていることも確認できる(『特高月報』1940年3月分)。その時点で485人の朝鮮人労働者が働いていたとされる。
雄別鉱業所での朝鮮人労働者の脱走については、1943年度の統計が残っており、46人に上る(北海道地方鉱山局史料による。朝鮮人強制連行真相調査団『朝鮮人強制連行・強制労働の記録 北海道・千島・樺太篇』現代史出版会、1976年660~661頁)。
 脱走した朝鮮人を日本人がかくまったという証言は、実は意外と多い。たとえば、1943年に故郷の朝鮮農村の田んぼで働いていたところをとらえられて雨竜ダム建設や尺別炭鉱で働かされた尹永完さんは、脱走して他の労働現場にもぐりこんだのち、さらに妹背牛町の農家で手伝いをしながら敗戦の日を迎えた。
農家の人たちは親切だった。敗戦後も町内会長が手続きをしてくれて、日本に残ったという(前述『朝鮮人強制連行・強制労働の記録』301頁)。また、タコ部屋や過酷な労働現場から逃げ出した朝鮮人を、アイヌの人びとが、かくまったことについても、いくつもの証言がある(石純姫『朝鮮人とアイヌ民族の歴史的つながり』寿郎社、2017年)。
 上記の投書の内容で、「警察が黙認した」ということを疑問に思う人もいるかもしれない。しかし、これは不思議なことではない。戦時中は、各種物資や食糧の増産が求められる一方で、農家を含め、どこも労働力不足であった。肉体労働を担える若い男性は貴重な労働力であり、ずっといて働いてもらえれば助かるという農家も多かった。また、駐在所の警官としても、もとの職場から戻すように迫られるわけでもなく、治安を攪乱する恐れもないのであれば、無理に「事件」にして仕事を増やす理由もなかった。
 なお、強制連行などの日本人の加害の歴史を語ることへの忌避感からか、日本人が朝鮮人に対して友好的に接したという証言を、ことさらに強調して紹介する人もいる。もちろん戦時下であっても、日本人が朝鮮人に対して人間らしい対応をしたことがあったのは間違いないだろうし、そうした事例を伝えていくのも重要だろう。
 だが、現代の私たちがまず踏まえなければならないのは、「何が何でもここから逃げ出したい」と思わせるような過酷な労働に追いやられていた朝鮮人たちが存在したことであろう。しかもそれは、「国策」と称して政府や民間企業が組織的に行っていた事業なのである。もし、朝鮮人に対して友好的な日本人もいたことを語りたいのであれば、まずは、そうした強制労働の事実をしっかりと見据え、戦争遂行を絶対視して朝鮮人に過酷な労働を強いていた政府や民間企業のことも同時に語らなければ、歴史の事実を伝える行為としては、甚だバランスを欠いたことになるだろう。