革帯で叩かれ、皮膚が避けた(裵元吉さん)

 たくさんの人が死にました。死ねば穴を掘って死体を放り込み、土をかけるだけ、人間の扱いはしてくれなかった。
 中には、耐えきれずに脱走するものがたくさんいました。しかし、ほとんどがすぐに捕まってしまう。そうすると、労働者を集め、丸く輪を作らせ、どの真ん中に裸にして引きずり出し、革帯で叩く。労働者の皮膚が裂けて血が流れる。バケツに水を汲んでおいて、その水をぶっかける。それを何回も繰り返す。労働者ははじめは悲鳴を上げているが、やがて死んだようになる。瀕死の重傷を受けた労働者は、仲間がみんなで介抱しました。こんなことは今話しても信じてもらえないでしょうが、実際の話です。

(出典:「記憶 反省 そして友好」の追悼碑を守る会編『群馬における朝鮮人強制連行と強制労働』、2014年)

●解説
 1943年、熊谷組が北海道函館付近で行っていた飛行場整地作業に動員された朝鮮人青年の証言だ。裵さんは全羅北道の農村の生まれ。1943年6月、18歳で動員された。「徴用」と証言しているが、国家総動員法第4条にいう徴用ではなく、役場から呼び出されたことをそのように言っていると思われる。数日前に通知が来たが、いつどこへいけばいいか分からず、田植えの準備をしていると、木炭車のトラックが来て、家族との別れも交わせずに連れて行かれたと、1996年1月25日に群馬県の自宅で証言した。2001年1月に亡くなった。