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炭坑の絵師・山本作兵衛が語る、朝鮮人・中国人らの強制労働

 大手炭鉱では、朝鮮からの徴用夫はもちろんのこと、中国人の捕虜や、英米の捕虜が数多く強制労働させられておりましたが、なにしろ日本人の鉱夫さえこんな状態ですから、それこそ目もあてられないような虐待であったようです。運よく生きのびて本国に帰ることのできた者はまだしも、こんな筑豊の炭鉱で息をひきとっていったような人たちは、さぞかし死んでも死にきれない気持ちであったことでしょう。

(出典:山本作兵衛『画文集 炭鉱(ヤマ)に生きる 地の底の人生記録』講談社、1967年)

◎解説

 山本作兵衛さんは「炭鉱の絵師」と呼ばれる。炭鉱を描いたその絵画は、2011年に国連教育科学文化機関=ユネスコの「世界の記憶」、いわゆる「世界記憶遺産」に日本で初めて選定された。
 山本さんは1892年に生まれ、14歳から福岡県筑豊の炭鉱で働き続け、60歳を過ぎてから炭鉱の生活を絵と文章で記録し始めた。「子や孫にヤマ(炭鉱)の生活や人情を残したい」と、1984年に92歳で亡くなるまでに1000点を超える絵を描いた。
 絵の余白に、当時の労働の状況などを記した解説文が細かい文字でびっしりと書き込まれているのが特徴で、半裸の男女が狭い坑道で石炭を掘る姿など、大半は危険と隣り合わせの中で助け合いながら生きてきた労働者の様子が克明に描かれている。

福岡県田川市「山本作兵衛コレクション」より
「図録番号581 タイトル:リンチ1」
https://www.joho.tagawa.fukuoka.jp/y_sakubei/kiji0034594/index.html

 上のリンク先は、後ろ手に縛られた男性労働者をつるして棒で殴るリンチの様子を描いている。このような、前近代的な暴力で統制を図った当時の炭鉱の状況を描いた作品も少なくない。
 山本さんは『炭鉱に生きる』で、「(昭和に入ったころには)明治時代からみれば、たしかに人間らしい生活になってきたかもしれない」と、炭鉱でも時代の推移の中で一定の生活の向上があったことを認めている。しかし、同時に「ひとたび戦争になったらどうでしょうか。産業戦士だ、石炭戦士だと口ではおだてますが、実際は囚人以下です。むごいものです。奴隷とどれだけの違いがあったでしょうか。あれは戦争中だからやむを得ないという人もありますが、それなら今の状態はどうでしょうか」とも指摘する。さらに「日本の炭鉱はそのまま日本という国の縮図のように思われて、胸がいっぱいになります」とも述べている。

 こちらのリンク先は、戦時中の過酷な炭鉱労働を描いたものだ。

同じく、「図録番号322 タイトル:昭和の監獄部屋」
https://www.joho.tagawa.fukuoka.jp/y_sakubei/kiji0034496/index.html

 「戦時中のヤマは人手不足でした。一人で十人分働け、と呼び掛けられ、特に独身者は監獄部屋にいるような扱いを受けている者もいました。戦時中なので、食べ物も休日もろくに取れず、青い顔をして働きフラフラになっている人のほか、自殺者までもいたと作兵衛翁は記しています」
という説明が添えられている。