戦時動員以前から劣悪だった朝鮮人労働者の処遇(信濃川朝鮮人虐殺事件)

 一目撃者は恐れおののきながら今の世にあり得ない次の物語りをした。「地獄谷といふのは妻有秋成村大字穴藤といふ作業地でここには千二百名の工夫がゐて内六百名は鮮人です、始め雇ひ入れる時は朝鮮からのは一人四十円前貸し一ヶ月六十九円の決めですが山に入ったが最後、規定の八時間労働どころか夜の八、九時頃まで風呂にも入れず牛や馬のやうに追い使ふ、仕事といへば食時を除けば一分も休まずにトロッコ押し、土掘り、岩石破壊から、土工、材木かつぎまでやるのだから心臓は悪くなる、からだは極端に弱る…
 逃走者に対する処罰、それは両手を後に縛り上げて三、四人の見張り番――見張り番は一名、決死隊と呼んで匕首(あいくち)や短銃を懐にしてゐる、――が杉の樹に吊るし上げて棍棒で打つ、なぐる…恐ろしい事にはよくこの山中で逃げ出した鮮人の腐乱した残死体が発見される、私の聞いた丈けでも川の下流だけでさへ死因不明の鮮人七、八名の死骸が漂着しています、恐らく働かぬといっては虐められ逃げ出したからといっては…嬲(なぶ)り殺しにされたのではあるまいか」

(出典:『読売新聞』1922年7月29日付「信濃川を頻々流れ下る鮮人の虐殺死体」)
※「鮮人」という言葉は差別語であり、本来、使うべきではないが、歴史的史料として原文のままとした。

●解説
 「信濃川朝鮮人虐殺事件」として知られる出来事を報じた1922年の読売新聞記事である。事件の現場は現在の新潟県津南町、中津川第一水力発電所工事現場であり、厳密には信濃川水系の一部である中津川なのだが、一般には信濃川~の名で知られている。ここでは、戦時労務動員以前の朝鮮人労働者をめぐる状況を伝えるものとして紹介する。
 1920年代、日本の土建業や炭鉱、鉱山の労働現場では、タコ部屋や監獄部屋と呼ばれる奴隷労働が蔓延していた。日本人労働者の確保が難しくなると、朝鮮人をだまして連れてくるようになった。
そこでは、前もって借金でしばりつけて逃げられないようにして、山奥で長時間の使役が行われていた。逃げようとして捕まれば、場合によっては死ぬまでのリンチを加えられる。上の記事によればこの現場では労働者の半数が朝鮮人だったとある。
 当サイトのテーマである朝鮮人の戦時労務動員は、この事件からずっと後の30年代末に始まるものだが、その時期にも、こうしたタコ部屋労働式の労務管理が幅を利かせていた。さらに言えば、言論が統制された戦時下には、問題が起きていても上の記事のようにそれを報道する自由は奪われていた。新聞紙面には、老いも若きも、男も女も、日本人も朝鮮人も皆、戦争勝利のために必死で働いているといった空疎な言葉だけが並んでいたのである。戦時労務動員の現実を理解するには、その向こうに見えるリアリティに注意深く目を凝らす必要があるのである。