見出し画像

2022年5月~9月の備忘録

 2022年5月の小山田さんの復帰報告から2022年10月10日時点までに見て感じたことを中心に、個人の記録として書く。


 いい加減な人間だけど、できるだけ物事を歪めずに見たい、誰に対しても敵対や冷笑をせずなるべく正直に対峙したい、本人を前に言えない批判をなるべく別の場で言いたくないし、大事だと思うことは直接伝えたいと思っている。ここに書いたのは、基本的に誰かに直接言える内容だ。
 一方で、波風立てたくないという傍観者的感情も少しあるし、性急に立場を表明することで、そそっかしい自分が予想外に誰かを傷つけるのも怖い。整理や判断できる前段階で無理に言葉にすると、中途半端な内容しか書けないのに加え、小山田さん本人が周囲にどう振舞うことを期待されているのか不明なことも、ずっと気になっている。
 やはり黙っていた方が良いのかもしれないけれど、黙っていて伝わらないことを伝える為にnoteを始めたから、もう一度、わざわざ文章にしようと思う。noteは、長い文章を押し付けず提示できるという点で、わたしには使い勝手が良かった。
 自分の意見表明や頭の整理をする以外の意図はない。一石を投じて波紋を見たいなどの余裕はなく、せめて状況を悪化させないよう黙っていた方が良いのではとの強い疑問もある。書き始めて止めて、書き終えるまで4カ月躊躇したけれど、結局黙っておれなかった。自制して黙っている人には申し訳なく思う。見物して陰で文句を言って、結局誰かのせいにして自分から目をそらすことをしないように、わたしにはこれしかできない。
 冷静風な文章とごく個人的意見とが混ざっているが、前までと同様、想像や感想についてはそれと分かるように書いてある。


 再度確認しておく。
 小山田さんは20代半ば頃、昔のクラスメートに関する思い出話などをインタビューで話した。それをライターが文字にして、数誌が記事を出版した。
 小山田さんの炎上について、色んな言説があるけれど、想像を全て省くと、動かしようのない事実として判明しているのは、それだけだ。それ以外に言われていることは全て、様々な判断材料はあったとしても、話者それぞれの経験に基づいた想像を含んでいる。経験を軽んじるつもりはなく、意見は否定しないが、裏付けの足りない想像は事実とイコールには扱えない。(これは擁護派と揶揄されている人にだけでなく、全方向に向けて言っている。)
 実際に本人が話した内容、学生時代に本人やクラスメート達が実際にした行動、雑誌編集者が話をどう文字にしたか、各当事者がそれぞれの時にどういう感情でいたのか、全て決定的な証拠はない。
 直接の当事者で明確に当時のことを証言しているのが本人と一社だけなので、わたしはそれらをとりあえずの仮定として受け止めている。事実が確認されていないことについての判断は、わたしはしない。材料が少な過ぎてできないから。すっきりしなかろうと、今はそのまま受け入れるしかないと感じる。
 小山田さんが元クラスメートの許可を取らず勝手にインタビューで話題にしたこと、そうと知りながら記事を出版した人達がいたことは事実だ。時代背景や事情があったとしても(それらを考慮する意味がないとは言わないが)、インタビューが載って起きた騒動があり、勝手にエピソードを載せられた人に迷惑がかかっていないとは考えにくい。
 昨年9月17日に小山田さんはホームページ上に文書を発表し、一連のインタビューで、記事にされた人やそのご家族を傷つけるような話をしたこと自体について、非を認めて謝罪を述べている。
 謝罪声明の詳細については、ホームページを参照していただきたい。

 謝罪声明について、弁護士が全て書いたとする感想も見たが、それは全く根拠のない想像だ。本人が書き上げたものを弁護士に見せてゴーサインをもらった、から、本人からの詳細な聴き取り内容を弁護士が文章にまとめた、その間のどこかと考えるのが、弁護士の職業倫理を考慮すると妥当な線だろう。依頼人が謝る意思のないことを、弁護士は勝手に謝罪できない。
 長くて言い訳がましいとする意見も見たが、よくある「世間を騒がせて申し訳ない」という曖昧なものでなく、具体的な反省内容がきっちり示されていたことを、わたしは支持している。


 今年5月25日に復帰の報を受けた際は、世間の受け止め具合については、大体予想した通りだった。復帰の際のコメントは非常に短かく感じた。昨年9月の声明を読んでいない人が、離脱していたファンなどの中にも今も見受けられるので、もう一度長く書くか9月の声明に言及するかした方が、周知の為には良いのではと思った。

 7月のフジロックでのCorneliusの演奏はYouTubeで見たが、圧倒的で素晴らしいと感じた。(無論、万人受けする音楽は存在しないので、彼のような音楽が趣味でないという人には響かないとは思う。)
 これまで通り、トークを省いて音楽と映像の融合を追求した演奏だったけれど、今回はファンやフェスへのお礼のような表現も垣間見られた。前半声が震えていたのは、緊張の為だけでなく、出歩くのが極端に減り肺活量や筋力が衰えているのもあるのでは、とも感じた。
 誰かも書いていたけれど、あの場で中途半端な謝罪を挟まなかったことは、良いのではないかと思った。雑誌インタビューは音楽活動に付随して行ったものだけど、インタビューとステージや作品とは、本来的にある程度切り離して評価すべきだと思う。
 あるいは、その考えには、作品は作品で楽しみたいという、わたしのファンとしてのエゴも含まれているのかもしれないが、どちらにせよ、贖罪はステージ上のパフォーマンスとしてでなく純粋に行った方が良い気はする。
 現在どのような償いを行っているかを全て事細かに広報する必要があるか、私にはわからない。した方が「世間」の納得や評価は得やすいだろうけれど、償う相手はあくまで当事者のはずなので、どこまで「世間」の要求に対応すべきなのか、どういう償いがふさわしいのかというのも含め、判断が難しいと感じた。

 活動再開のコメントを出した際は一定数の報道があったものの、実際の復帰後の作品やステージについての報道は、ごくごく僅かだった。もう少しは記事が出るかと思ったけれど、本当に世間の興味は移ったらしい。
 興味をまだ持っているのは、関係者やファンと、本当にこの件に関心があり継続して経過を見ている人と、炎上全般の観測を習慣としている人だけ。
それでいいのか、それがいいのか。「忘れられる権利」がどう扱えばよいものか、私はまだよくわからない。

 Yahoo!のフジロック復帰記事についたコメントには、全てではないがある程度目を通した。時間が経ったからか冷静なコメントも増えて、昨夏に比べて、よりばらけた内容に見えた。
 以下数行、目に止まった批判について書く。ヤフコメを読むとトラウマがぶり返すファンの方は、この段落は読み飛ばしてください。

  • いじめをしたらこんな目に遭う実例として叩かれ続けるのがいいという、磔刑のような意見。

  • こうやって何かする度に叩かれるのが償いであるという意見。(当事者でないのに叩く方の側の権限が何によって付与されているのかは、よく分からない。)

  • いじめを受けた人は社会に出る時に困難を伴うのだから、いじめをひけらかした人間が一番得意な音楽で活躍するのは不公平、音楽業に携わるべきでない、という意見。(いじめを受けた側の困難についてはわたしも実感してきたが、職業選択の自由を奪う根拠の部分は曖昧に感じる。)

  • 音楽はやればよいが、表舞台に出るなという意見。

  • 社会的に抹殺されるべきとは思わないけど、見たくはないという意見。

  • 彼にオファーするな、音楽業界が腐ってるからこういう奴がのさばるという意見。

  • 刑務所のような更生プログラムを、自分に課して実行すべきという意見。

 ざっと見ただけでも、活動再開に異議を唱える意見にも色々あって、一様ではないし判断基準も曖昧に見える。だからこそ、どれかの意見に従って贖罪をしたとしても、他の意見の人は赦さないだろうとも予想される。何をするかを選ぶのが難しい状況だと感じる。
 被害者へ直接謝罪したのか、ファンのSNSに書いて尋ねる人を時々見かけたが、昨年のWeb記事での事務所社長のコメントを読む限りでは、もう何らかの謝罪のやりとりは行われたようだ。
 謝罪の詳細を明らかにして注目を集めることは、相手側も望んでおられないかもしれないと思うが、それは私の推測で、詳しいことは分からない。
気持ちは他人にはわかるはずがない。勝手に被害者の名前を利用して、赦したり断罪したりする権利は、誰にもない。

 ロッキング・オンの山崎さんと渋谷さんがフジロックへ行ったことについては、多少神経がざわついたものの、洋楽誌の編集長が海外有名アーティストのステージを選んで見ること自体は、そんなに不自然ではないと思った。 自社のフェスを翌週に控えて余裕があるなとも思ったけれど、役割分担が万全だったのかもしれない。彼らのことは気にしても仕方がないのにと思う。


 昨年末に最初のnote記事を書いた時点では、正直言うと、一部のファンの言動を抑制したいという意図が少しあった。
 本人が謝罪しているいじめ被害について過少に扱う発言をするのは色んな人を傷つける行為なので、やめるべきだと思った。炎上当時の批判発言をいつまでも蒸し返して執拗に誰かを言葉で攻撃することも、何かを生むと思えない。アーティスト本人の不利益に繋がりかねないし(一部ファン側の誤解からの不当な攻撃も時折起こっているように思う)、やめた方がいいだろうと今もわたしは思っている。そのことは、個人的意見としてはもう一度発信しておく。
 しかし、この件に限らず、他人の行動を自分の意見に沿うように変えてもらうことは無理だ。人は自分の経験を通して考えや傾向を形成し、それに従って行動している。自分が正しくてあなたが間違っているから改めよというような発信をいくらしても、効果が出るはずがない。
 相手の意見だけを変えようとしていた最初の自分は、ある意味で傲慢だった。自分の見方だけが正しいはずという姿勢だったからだ。会話をする時は、(両方が)相手の意見を正しいだろうものとして一旦は真剣に検討すべきだ。どちらも正しい場合やどちらも間違っている場合もあるし、大体の場面においては、両方が部分的に正しくて部分的に間違っていることが多い。
 相容れない考え方をこちらの都合だけで変えさせようとすることは、異質な存在に対していじめや差別や無視をする心と、根っこで繋がっていると思う。自分にそういう部分があることには、自覚的でいたい。
 (万が一の誤解がないように書いておくけれど、この部分の文章はあくまで自分の反省の記録で、特定の誰かに向けたものではありません。そうでないと、上の文章と辻褄も合わないですし。)
 今年に入って色んな人の意見を読み会話してきて、当然とも言えるけれど、ファンもそれを批判する人も全員、話題によってそれぞれに細かく反応が違っていると感じた。話すほどにファンの全体像はぼやけて、Twitterをやっていないファンの方が当然多いだろうし、多数意見がどのようであるかは、今の私には全くわからない。
 だから、自分は自分の意見を持ってその中にただ存在していれば良いし、言いたいことは個人の見解としてその都度述べれば良い、それ以外できることはないと思った。
 タイムラインに流れてくるものを読んでいると、しばしば、自分と異なる意見が存在すること自体を嫌がる人が非常に多く感じられる時がある。それは結局我儘で、自分の判断を信用しすぎなのではと思ったりする。自分の理由だけでなく、他者の理由も尊重したい。同じファンであってもそうでなくても。
 
 復帰の知らせが届く前には、皆が黙っていると、彼に味方の存在が見えなくなるのではという、切実な不安があった。
 昨夏わたしは、黙ってネットでみつかる資料を読んで、作品を一から聴いていただけだった。知識を蓄積しないと何も言えないくらいに状況がもつれていたからだけれど、その時点で全体を把握できていたとしても、実際に何かできたかは分からない。
 少しでも庇う発言をすると大勢から罵倒(もちろん正当な批判もあった)が飛んでくる時期に、報道へ疑問の声をあげ実証しようとしていた人達の勇気や行動については、やはり尊敬や評価をしたい。誰もができたことではなかった。しかし、それと一部の不用意な言動を無かったふりをしたり肯定したりすることとは、全く別のことだ。
 また、黙りたいファンには黙っている権利があるし、状況は目まぐるしく動くから、下手に焦って動くよりも黙っている方が賢明に思える場面の方が、どちらかというと多い。
 相互フォロワーを含んだ対立が起きているのに気づいた際などは、口を挟むべきかどうか一応は悩む。黙って見過ごせることと見過ごせないことの境目の判断は非常に重要だが、細かい状況によって対応は変えないといけないし、境目の判断が一番苦手なので、わたしはいつも迷う。
 ただ、対立している人同士に力や人数での不均衡を感じず、自分が当事者でないこと、そもそも対立の原因が些細に見えることに関しては、静観する。明白な人権侵害を目撃したら指摘の必要があるけれど、道徳的判断は基準が曖昧で人それぞれ違うし、大勢で一斉に指摘することは炎上のようなダメージを与えかねないので、対処は難しい。わたしは、いきなり「あなた間違ってますよ」と一方的に正しさを押し付け責めるつもりはない。
 誰かと異なる意見をぶつけ合うのもある程度はいいだろうと思う。無意味な陰口や存在の否定にならず、お互いに相手の意見に耳を貸す気持ちがあれば。わたしはできれば、それはあり得ないと責めるのではなく、こういう風に考えていますがあなたはどうですか、なぜそう思うか教えてもらえませんか、という風に対話できたらと思う。対話する気もなく、お互いに陰でこそこそ悪口なり批判を言い合うことは、非常に不毛だ。もはや状況の解決より、言い合い続けることが目的になってしまっているように見える。
 ファンダムの治安が悪いと言う人もいるが、よく見ると、たとえば過去のいじめの疑惑が起きるなどした時は、他のファンダムでも結構ばらばらに自己主張して対立が起きているのを何度か見た。宙ぶらりんの状況が続いていることこそが、多大な混乱を生み続けているのではないかと感じる。
 けれど、状況が気持ち悪いからといって今すぐどうにかできるものではない。判明している事実の少なさに耐え、無理に点を線でつなげて解決しようとしないことが、むしろ今最も必要とされていることだと思う。今の状況の解決方法は、少なくとも、過去や誰かの人格の善悪について、想像で埋めようとすることにはない。反応のない場所をてこで押し続けることにもないと思う。
 同調圧力は苦手なので、ある程度の自由さは必要だと思っているが、事務所については、もう少し要点を押さえて情報発信してくれた方が安心だとも思う。予め決めない姿勢が、彼のこれまでの音楽活動を形作る一端を担っていた部分もあるのかもしれないけれど、今はオリンピック前よりも不安定な状況に感じるし、前のようにはいかないのではないだろうか。

 ファンへの批判意見の全部には、とても目を通せないが、時々、いくつかは見ている。ファンを一括りにまとめ過ぎている意見もあると感じる一方で、真っ当な批判や、考えさせられる意見もある。
 ファンは被害者のことも復帰への感動物語へと集約してしまっているのでは、というような(多少ニュアンスは違うかも)意見が気になった。
 少なくとも今は、世論からのバッシングという火種の危険は、昨夏以前よりも高い状況になったままだ。物語としてまとめられる状況にはわたしには見えないし、被害者の方にしても、雑誌の中で触れられたのは他人から見たごく一部分の切り取りであって、実際には、誰にも役割として消費されない人生を送っておられるのではと思う。
 小山田さんの音楽やステージを喜ぶことと、一連の出来事を物語として消費することとは、別のことだ。けれど、安易な感動に流れないように、改めて自分でも留意しておくことは必要だろうとも思う。

 ファンの中には、小山田さんの炎上の件を思い起こさせるようなニュースが起きる度に、比較して意見を言う人も多くいる。意見の部分部分には、同意できることや真っ当な問題提起も含まれている。
 けれど、小山田さんの件は状況が非常に特殊で、一見して似ている部分があるような事件も、細かく見ると全く状況が違っている。別の事件にはその事件の当事者がいるので、詳しく状況を調べずに安易になぞらえて意見を言うと、往々にして間違った情報を拡散する元にもなるし、実際そういう間違いが起きているとの指摘もあったようだ。
 わたしも何か事件が起きるとつい反応して感想を述べたくなるたちだけれど、別の事件についてもきちんと調べてから発言する姿勢を保つことが必要だと思っている。

 小山田さんの活動再開に当たって、これまでの仕事の評価が助けとなったことや、以前から交流のあった人との仕事で始めようとすることは、現在の苦境にあっては自然なことだったと思う。
 ヤフコメなどでは、芸能一家ゆえの七光りで復帰できたと書いている人がいるが、伝統芸能や頻繁にテレビに出るようなタレント業とは違うので、家系の効力の大きさはやや疑問だ。どちらかと言うと、渋谷系全盛期にファンだった人が音楽を活用する業界に多く入っていて、ちょうど今決定権を持っているから、というのが大きいのではないのかと思ったが、私の推測も七光りで復帰というのも、どちらも根拠のない想像に過ぎない。

 以前も少し書いたけれど、わたしは、才能や人望があるから炎上しても再起できる、ということだけでは、社会構造として不足していると思う。例えば、冴えない一般人で人格者でないわたしが何かやらかして炎上したら、家族や少数の友人以外は手を差し伸べてくれないだろうから、社会復帰はより困難になる。そういう場合の救済手段も、できてほしい。
 友情のセーフティネットもいいけれど、わたしのように頼れる友達が少ない人間だって沢山いる。気になってDOMMUNEをもう一度見たら、ダースさんは、外側からのセーフティネットや法制度について、少しだけ言及されていた。

 炎上というのはルールのない不毛な火事で、無くなればいいのにと思っている。誰かをやたら聖人のように祀り上げることも、異物として攻撃することも、自覚のない個人的欲望の転嫁だと思う。わたしはそういうのは本当に嫌いだ。人間なんて不完全なもので、お互いそれを認め合わないからむしろ問題は起きているのではないのか。
 行動の責任を問う際には、炎上を経ずに、明文化したルールにのっとってやるべきではなかろうか。法をくぐり抜けている悪人を超法規的に罰するなどと言いだすと、それをやる人=正義ということになるが、正義なんて人によって定義の違う主観的なものだから、暴走するに違いなく危険極まりない。法をくぐり抜けないようにする対策を探すこと、被害者に対してできることが何かないか考えることが先決だろう。


 ここまでは、ソニックマニアを見に行く前に書いたものに、大幅になったが補足を加えたものだ。
 ソニックマニアでは、直前に一番長く付き合っているだろうサポートメンバーが欠席というアクシデントがあったけれど、声にはフジロックの時より力があるように聴こえた。
 高橋幸宏さんの記念コンサートでは、他アーティストとの共演も果たし、久しぶりに話す声も聴けた。
 実際に目にした演奏は、どちらも素晴らしく感じた。しかし、昨夏以前とは明らかに輪郭が変わったまま、減った体重があまり戻っていないように見えたので、心身の状態についてはまだ心配している。

 復帰してからの活動を見ていると、イベントへの出演依頼はある程度受けるようだし、リミックスや音楽関係でのコメント依頼等はこれまで通りこなすのだろう。今後他のミュージシャンと名前を出してがっつりタッグを組む仕事をするつもりが本人にあるのかは、分からない。企業広告での依頼はしばらくは少ないだろう。
 彼の音楽は、既存のスタッフとだけでも深めて行ける種類のものだけれど、インタビュー等で話していたように、依頼仕事での発見を持ち帰ることがアルバムの変化に影響してもきたはずで、そこも引き続き繋いでいければ嬉しいな、とファンとしては思う。しかし、今後については静かに見守りたい。
 20代の頃の彼だったら、黙ってしばらく外国へでも行っていたかもしれない。苦しい場所へ早期に戻ることを選んだ現在の彼を、ファンとして見ていようと思う。

 相変わらず長く中途半端になって、読んでいただいた方には申し訳ない。 これからも自分なりに考えて状況を見るつもりだけれど、この件についてはできればもう書きたくないと今は思っている。Twitterも、本当は復帰を見届けた時点でフェイドアウトすればいい気がしていたけれど、今はまだ迷っている。何にせよ、CorneliusやMETAFIVEの作品は聴き続けるだろう。

ヘッダーは、ソニックマニア後に撮った、幕張の浜からの眺め。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?