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ネットで意見を述べることの困難さ

 子どもの頃は、家族で夕飯時にニュースなどについてよく話し合っていた。内容が理解できない時には、親に「この出来事はどうして起こったのか」とか「どういう意味を持つ出来事なのか」と聞くなどしていた。
 ワイドショーや、SNSのトレンドで行われていることも、そういったお茶の間の会話に近いよなぁ、と思う。思い込みやただの噂話や偏った感想も多い。今思うと、親がしてくれた解説も、必ずしも正解ではなかっただろう。
 茶の間の会話と電波に乗るものとでは、決定的に違う点がある。拡散力だ。だから、報道メディアはもちろん、素人がSNSに載せるにも、幾らかの責任感が必要だと思う。正しいことを言わねば、と力が入ると、たかがSNSであってもすごーく書きにくくなるけれど、なるべく人を傷つけないで済むように、ある程度の気遣いは必要だろう。どこまで気遣うかを決めるのは難しくて、今は試行錯誤している。noteの記事も、公開後に気になった部分が出れば、ちょこちょこと修正を加えている。

 何かの事件を知った時、SNSを使っている人は、反応するかどうかをまず選ぶと思う。それが社会的に大きい出来事であればあるほど、無視するという選択にも、幾ばくかの重みが出る。相互フォロワーの多くに何らかの関係があったり発言をしていると、尚更に。
 無視は適切でない気がして、生半可な情報のみで意見を述べてしまうと、往々にして後悔する。意見を述べるべきか述べないべきか悩み、どちらに進んでも、真面目に考える程に苦しくなる。
 私はそもそも、たぶん脳の特性もあり、何かの行動を選択すること自体に負担を感じる。それぞれを選んだその先々の選択や結果の可能性までが、瞬時に頭の中で展開しぐるぐる回るからだ。やっと選んだ後も、他の可能性を捨てきれずに、くよくよする。
 我ながら思考に無駄が多いが、SNSでの反応は、誰かの現在や未来を左右しかねない重みを持っているから、慎重になるに越したことはない。私自身は少数の人としかつながってはいないが、それでも小さなつながりの先には大海があると思う。
 〇〇垢、と最初から言及する範囲を限っている人は、選択がシンプルだろうし、ある意味賢いやり方なのかもしれない。私は、生活全般について、行き当たりばったりに行動することで、自ら苦手な選択の連続となる環境を作っている。ある程度の柔軟さは残しつつも、もう少し行動方針を作って、脳や行動の空回りを減らした方がいいのだろう。

 最近、反応に苦慮したのは、映画界における性的搾取告発のニュースについてだ。
 私は最初に問題となっていた事件の報道の仕方について、「まだ判決が出てないから、確定ではないものとして扱うべき」と述べた。
 私は基本的に、捜査の対象や被告となった人であっても、裁判の最終判決が出ていない段階で犯罪者として扱うことには、反対の立場だ。犯罪者であっても、当然基本的人権は存在するので、暴言をぶつける権利は、被害者でもない人間には全くないのは、言うまでもない。
 しかし、性的暴行やいじめ、各種ハラスメントなどは、被害者が告発すること自体に多大なストレスやリスクがかかる。だから、それらの事件について「判決が出てないから確定ではない」と発言すると、間違いではないのだが、告発した人に対して、ある種二次加害に類する行為になるのではないか、との迷いが生じた。
 私の頭の中では、告発というリスクを冒した人の言葉を尊重しつつ、同時に、まだ判決を下されていない人の人権も尊重する、ということは可能だ。結論を保留にしてどちらにも耳を傾けるのであって、加害を見ない振りをするということではない。
 しかし、被害を受けて告発する傷ついた立場の人にとっては、告発の言葉を信じるか否か、どちらか一方しか存在し得ないのではないか。そう思うと、被害者やその関係者に言葉が届くかもしれないネット上で、折衷案的な意見を言うことに、躊躇が生じる。今回は、つぶやいた後で考え込んだわけだが。

 もっと規模の大きい話だと、ロシアがウクライナに侵攻した件についても、同様に意見のしにくさを感じた。
 私は、今ロシアがやっていることはひどくて間違っていると思うし、あらゆる戦争を仕掛けることに反対だ。しかし、必要以上に善と悪との闘いとして描写する報道態度については、新たな分断を生みかねない、危険なものだと感じている。今のロシアと似たようなことをアメリカがやった時には、日本を含む西側諸国のメディアは、たいていアメリカ側が正義であるかのように報道しており、その結果、世界にはますます戦争とテロリズムが広がったように思われるからだ。
 真に戦争に反対するには、あちら側が悪でこちら側が正義という、単純な報道上の分断を、まず警戒すべきだと思っている。そういう報道は結局敵と味方を確立することになり、分断を深くする。報道は完全な中立を保つべきだと言っているわけではない。あっちとこっち、西と東に無理に分けてストーリーを作らず、もっとバラバラな世界を知ることで、バランスの構築方法を考えていくこともできるはずだ。ウクライナも悪いだとか、代理戦争がどうとか言いたいのではない。アジアやアラブやアフリカも視野に入れて、世界を考えてほしいだけだ。
 しかし、先日、「犠牲者が出る現状を止めなければと思うけど、必要以上にウクライナ側が善でロシア側を悪と糾弾するのはどうかと思う」という趣旨の発言をネット上でした後で、これは、ウクライナに縁のある人が目にした時には、やはり傷つける稚拙な言い方だったかもしれない、と思った。私が話したかったのは、国家についてであって個人についてではないのだが、現在圧倒的な暴力を受けている人達を巻き込む内容なので、Twitterの短文で適切に述べるような技術は、私には不足していると、発言した後で感じた。

 こういった様々な立場の交錯する事件に言及する時に難しいのは、自分の発言について、意図せぬ行間を読まれ得るということもある。一応読み返してみて、隙を省こうとするのだが、省き損ねる行間が残ってしまうことは、どうしてもある。出版物ならともかく、個人のSNSで他人に校正してもらう訳にもいかない。

 これらの迷いには、まだ解決策は出せていない。簡単に結論づけてはいけないと思っている。もう少し、色んな人の意見を見聞きして考えたい。既に行ったtweetについては、とりあえず残してある。不快に思われた方がいたら、申し訳ない。
 書いていて思ったのだが、こういった自由な意見の言いづらさも、情報の共有のしづらさにつながって、ますます陰謀論や極右極左など極端な言説の温床にもなり得るのではないだろうか。
 正直、気楽だったお茶の間での会話が懐かしくはある。しかし、時代は変わってしまったのだ。諦めて試行錯誤するより他ない。

 カバー写真は、繁華街で咲いているのを見て撮ったもの。正確な花の種類は分からない。
 
 

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