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正しさとは

 わたしにとって、「正しさ」は、決して自分以外の誰かに実行させる為のものではなく、自身の到達目標として自分の中に創り上げるものだ。時代や個人的成長とともに「正しさ」の在り方も変容していくので、その変化を自覚的に観察すべきものでもある。
 それでも万人に共通不変の「正しさ」が存在するはずだ、という考え方も、それはそれで素敵だし尊重もするが、お互いの了解のない正しさを一方的に押し付けられるのは御免である。
 社会を公平に運用する為には、主観を離れたルールが必要だ。個別の権利侵害に関する事例については、個別私的に制裁を加えるのでなく、ルールとその運用についての議論をすればいい。

 誰かの行動が自分の考える正義からはずれている(けれど法的な逸脱とまでは言えない)と感じた時は、その事実を「あなたが言った(した)これこれに関して、自分はこのように感じた」と自分を主語にして簡潔に通告すればいい。謝罪等を求めたい場合は謝ってほしいということも伝えるとよいと思うが、謝罪が返って来ないこともあるだろう。
 対話が食い違うからといって罵倒したり、相手やその周りにいる個人の行動を自分の思うように変えさせようというのは、暴力や全体主義と同じことだし傲慢だ。
 自分の思う正しさが相手には伝わらないことは、しょっちゅうある。相手は別の正しさや状況に従って生きているからだ。その相違自体を問題とするのであれば、お互いの思う正しさとそれぞれが置かれている状況のすりあわせが必要になるが、それはおそらく相当困難な作業ではないだろうか。

 論争や騒動における当事者やその批判者など、矢面に立ち続けている人は、激しいやりとりの応酬を続ける経験の結果として、争っている相手だけを凝視するようになりやすい。
 視界の外の細部が目に入らなくなったり故意に見落とすようになり、自分や仲間と思う人に甘く、対立相手やそれ以外の人は粗雑に扱ってよいと思うようになりがちである。それを踏みとどまる人も大勢いるけれど、そうなってしまった人の経緯も、ある程度は汲み取ることはできる。
 多くの当事者による社会運動やそれへの反対運動の先鋭化した部分が、そんな風に振舞うようになった結果、孤立して広い支持を失っていく(しかし都合のいい時だけ政治的経済的に利用される)ことが往々にしてあるように感じる。
 ただしこの見方も、わたしの出自のほとんどが日本でのマジョリティ的なもので占められていたから感じているものであって、絶えず安心を脅かされる状況で過ごしていたら、ある程度の攻撃的言動を取ることを安全上必要不可欠だと思うのかもしれない。
 今自分の見ている正しさが全てだと思わないこと、これだけは万人に共通ルールにしていいんじゃないかなぁ。

 また、自分達に甘くなることの原因のひとつには、失敗を認めることが自分達を取り囲む攻撃者達からの即攻撃に繋がるという、ある意味正確であろう予測のもと、失敗を失敗と認められなくなる、ということもあるのではないか。
 そのことを考えると、失敗を失敗と認め、かつ認めたことを自分の心の正しさの証拠として利用しない人については、どんどん称賛していくべきだな、と思う。

 「あんな人達」と扱われて怒る人は、自分も誰かに同じことをしてはいけない。自分達は正義側だからOK、には何の説得力もない。どれほど面倒でも対話することが望ましいし、対立相手を粗末に扱うことは事態の悪化を招く。悪を暴く為なら、嫌がらせしたり晒したりプライベートを暴露する権利があるのだ、という考え方に、どんな正しさや根拠があるのか?
 対話・交渉をするには、最低限、異論を展開する自由を相手に譲歩する必要がある。それがもしできないようであれば、せめて罵倒し合うのはやめ、お互いに返答を得ることをあきらめて、互いの主張をそれぞれの場で展開し干渉しあわない以外に、それぞれの平穏と正統性を保つ方法はないのではないだろうか。
 こういった考えは、ある意味では対人関係を避ける臆病によるもので、関係性の放棄なのかもしれない。
 しかしやはり、不毛で一方的な意見の押し付け合いを続けることは、関係者全員を不幸にする。議論をするのであれば、一旦相手の意見を異論をはさまずに一通り聴くくらいの譲歩は、最低限必要である。
 正直、日本の社会は空気による何となくの合意で意見形成をしてきた伝統もあり、冷静に個人間で議論をする技術が、全く発達していないように思う。義務教育では学校や教師の考える正しさや集団行動からはみでないことだけを叩き込まれ、議論のしかたを訓練することはほとんどない。

 対立相手を言い負かす為に、他の人がやる場合には別にいいとも悪いとも思わないような行動をとりあげて批判したり、論点と全く関係ないことをこじつけて嘲笑してみたり、そういう不毛な行動は、その場を荒廃させる。
 一部分だけ共通点がありそうな話題とこじつけて、自分の主張に繋げて話す手法も、その話題に本当に関心はないことが透けて見え、非常に失礼だ。手法としてこじつけられた人のことを、さも考えている風に装って、全く想像していない。
 直接関係ない誰かや何かを引用して、自分の論敵を攻撃しようというやり方は、迷惑をかけるのでやめた方がいい。引用をせずに、自分が相手についてこだわって否定したい理由について、ちゃんと冷静に頭を整理して発信したら、それは伝わるべき人にはまっすぐ伝わるはずです。
 攻撃の為に言葉をつむごうとすると、ねじれが生じ、それが弱さにもなります。ちゃんと自分の考えを内省することが、伝わる言葉を生むはず。

 こういう、わたし自身と社会全般を広く含めて書いた記事を投稿しても、「これはあいつらのことを批判しているんだがやつらに理解できるまい」とか、「きれいごとに逃げるのはいいからあいつらを黙らせろ」などと、書いたわたし本人や読み手自身を除外した局所的なものと受け取る人達が、あきれるほど多い。この文章を変な風に利用してほしくない。
 他人の投げたブーメランには気づくけれど、自分の投げたブーメランには一切気づかない人達。そして、その人達の様子を楽しく観察したり批判することで自分をましだと思っている人達。
 想像すると暗澹とした気持ちになるけれど、わたしの感じ方・行動を他人には変えさせられないように、他人のそれも変えることはできない。自分にできる範囲のことを、淡々とやるしかない。

 もちろん、自分を胡麻化さずに、趣味やたわいのない楽しみや小さな愚痴だけを分かち合いつつ、自分のできることをそれぞれにきちんとやっているらしい人も沢山見る。また、たいていの人は時々失敗をし反省しながらも最善を尽くそうと暮らしている。
 わたしにも相当な押し付けがましさがある。だからこれをここに書いて、自覚的にブーメランを投げている。元々対立のある場所にわざわざ入って「そういうのどうなんですか」と言うのは、そもそも筋が違うのだろう。そこには、単に争いごとを見たくないというエゴが入っている。見ないようにするか出ていくか、中に自分好みの島を創るのが本当なのだ。
 もう次何か余計なことを言いたくなったら消える、今はそう思っているけれど、どうなるやら。

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