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「良い気分」乞食になってる

スピリチュアル・引き寄せの法則とか好きになって、実践するようになって、より自分への制限(?)がかかった気がする。

なんていうんだろう。

より自由(自由気ままに行動すること)が無くなったっていうか。
なんか余計に、ムダに時間を消費していないか?と考えるようになってきた。
望む未来・願望を叶えるなら、「良い気分でいる」ことが大事と散々、さまざまな動画や本、ブログ等で見聞きしてきた。
だから、常に気分良くいようとしてきた。

私の中で、この「良い気分でいる」は《すごく楽しい・嬉しい・テンション高い》状態のことだと解釈。

なので、
どんな時でも面白い動画を見たりし。好きなラジオを聞いたりし。好みのイラストや画像、マンガを見たりし。好きな音楽を聴いたりと。
空白の時間をなくすように「手軽に」自分を楽しませていた。

私は普段から本当に思考することが多くて、上記のような音や景色?で遮ってもらっておかないと嫌な事ばかり想像し、楽しくない思い出が蘇ってきたりしていた。それが物凄く嫌で、それに。「気分良くいなきゃいけない」みたいになっていたから。

頑張って(必死になって?一生懸命になって?意固地になって?)「気分良い」状態を保とうとした。気分良くいることに囚われていた。

また、どういう時に動画や音楽を欠かさず聞いているのか、というと。

例えば。
歯磨きや、食事。ドライヤーで髪を乾かしているとき。料理や食器洗いをしているときとか。あと運転中も。
毎日行っていて、何も考えなくてもできることをしている時だ。

だって、これをしないと。
外からの情報が入ってこないと、どうしても嫌な思い出や観念が頭の中でぐるぐると反芻してしまうのである。

いわゆる<エゴ>さんが大暴れしてしまうのだ。

これが本当にしんどくて、自分で勝手に想像して、勝手にどん底の暗い気分になるという。
こんな状態になるのが嫌だから好きな動画を見たり、音楽を聴くのだ。しかし、最近はこの行為が一番時間を奪っていないか?と感じてきた。
なぜなら、わたしは逐一。洗い物や歯磨きなどをする時、聞きたい音楽やラジオを選ぶのだけれど。
この「選ぶ時」が問題なのだ。

あらかじめ、聞こうと決めておいた曲や動画をただ再生するのではない。
そのとき、その時でめちゃくちゃ選ぶのだ。

そのときの気分に合ったドンピシャのものを探して、探して、選ぶのである。これが時間がかかる。しかも、全くと時間が過ぎていく感覚がない。これが怖い。気づけば、10~20分かかっている。(その時間に歯磨きとかできるだろ!)
引き寄せの法則やスピリチュアルにハマる前。こんなに自分の気分を良くするために躍起になってなかったよな…。
「気分良くする」ことが必須条件!みたいになっている気がする。
確かに重要ではあるだろうけど。本当に一番大事なことってここか?

願いを叶える、望んだ未来を手に入れることが大事なことなんじゃないのか?本来の目的なんじゃないのか?自分が一番望んでいるモノは何だ?
目的を見失っていないか?方法・手段ばかりを重要視していないか?先人たちが教えてくれたメソッドやんの、すごくメンドくさくないか?メソッドをやっている時、本当に気分は良いのか?

目先の目的にばかり、意識がいっていないか?
本来の目的・最終的な目標は?(画家になること、絵を描いて生活していくこと、楽しく絵を描くこと)そうだ、

思い出した。

楽しく絵を描くことが出来ていないんだ。

私にとって一番重要なところ。
絵を描いているとき、なんかすごく苦しい時があるのだ。
ネガティブな思考が浮かんでくるのだ。(こんな絵で本当に売れるのか?生活できるのか?これ以上、上手く描ける気がしない。もっと効率良い上達法があるんじゃないのか?お金がない~、怖い~… etc etc...)

一枚の絵を描くのに数日かかる。
集中力ないのと、納得いかないのと。(でも不思議なことに描いている最中は「全然上手くない…」と思いながら描いているんだけども。いざ、出来上がると「あれ?結構上手に描けてるな」と思う。これがよく分からない。終わったら、満足した仕上がり(良い気分)になってることが多い)

絵を描いている、この長い時間
エゴさんがずっと邪魔をしてくる。

嫌な気分になると思うと、絵を描くことに躊躇する。
だからその前に気分を上げるため、
好きな音楽や動画を見ようとする→→長い時間選ぶ→→選んだ動画などをじっくり見たくなってくる→→余計に絵を描きたくなくなる

の、ループ
(現役東大生とかには、この時間の使い方まったく理解できないだろうな)

まず、「○○をする」ために。
その前に、
「良い気分になろう」とすることが違うのか?
``わざわざ``良い気分になる必要はないということかな?

外からじゃなくて、自分の内側で「良い気分」を作り出すのか?

最近、私は思い違いをしてたのかなと思うことがある。
「良い気分」って、笑ったり、楽しんだりと強く心を動かすことだと思ってた。ワクワク、ドキドキとか。
自分の心が動かないこと(良くも悪くも)や、テンションが特に高くもなく、低くもなく普通のとき。これは「良い気分」に入らないと思い込んで無視していた

むしろこんな時は、ダメだ、と不安になってた。
それこそ、エゴさんの得意技なのかもしれない。

気持ちがすごく沈む時、テンションがとても高く興奮している時。
これって実は一緒なのかも。

両極端(正反対)だけれども、「心がものすごく反応する」という点においては


常に「頂点に近い良い気分」しか認めない・意味がないと思っている状況ならば、ただ「何も思わない」「暇」「退屈」とか普通の平坦な感情は、「悪い」気分に分類させていたのかも。
というか、怖かったのかな。
何もしない、何も思わないって大丈夫なのか?と不安になってた。焦りが出てた。

感情が(気分が)ニュートラル・フラットである時
たしかに一番ただのありのままの自分って感じがする。
この状態を私は不安になって否定するように、何かをしよう・情報を入れようと「何もしない状態」をつくらないようにしていた。
ただ心地良くいれば、それだけで幸せなのに。

「何もしない」が怖いエゴさんの思うままになっていたんだな。

常に「良い・悪い」のジャッジが出来るものを探して、さ迷っていた。
時間を預けてしまっていた。

「良い気分じゃないとダメだ」と、徐々に自分自身に呪いをかけていったのだ。
気を抜くと、自然に嫌な想像が頭の中を駆け巡るから。
「気分良くする」ことに固執していった。

ただ嫌な気分を感じたら、思考を切ればいいだけなのに。
そこ(暗いとこ)から自分の気分を、わざわざ高いテンションのところへ上げる必要はない。底から頂点へ行こうとするから、時間がかかる。
ただフラットへ戻せばいいだけ。思考をやめればいいだけ。
ただ呼吸をして、存在してるだけなんだよ。

「良い気分」でいる時は確かに幸せを感じやすいけれど、「何もしない・思わない」時も幸せな状態じゃない?
なんでこれを排除しようとしてたんだろう。

「良い気分じゃないといけない!」と思っているから、自分の行動に制限がかかるのである。ただ、嫌な気分になる思考が出てきたらハッと気づけばいいのよ。そこで、ただ考えるのを止めればいいだけなのよ。

なにを難しく考えていたんだろう。
自分を幸せにしたいだけなのに。自由でいたいのに。
ちょっとずつ、嫌な思考を切るだけのこと、繰り返しやっていこう。

そういえば、
私は自分の心が穏やかでいられる日常が欲しかったんだ。刺激があることは時々でいいのに。
最近、私は常に刺激を求めてた。

のんびりして幸せを感じる、余裕のある心が欲しかった。
そして、そんな心でいられる
安心できる環境を手に入れたかったんだ。

本来の望むものと違う日常を送っていたんだ。だから、余計に焦って変になっていたんかな。

焦らないで大丈夫
そう自分に声をかけ続けようと思う。

何もかも、既にある。
なにをも乞う必要なんてないんだよ。
わたしは生まれた時から
自由を手に入れてるんだから。

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