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動画を創る物語


「一緒に動画を創らないか?」と大輔に声を掛けられた。

それは、私、てっさいが夢につまずき、転び、うずくまっていた時だった。
 

大輔との出会いはお互いが小学三年生までさかのぼる。

友達の友達。子供のころはそう言った出会いで友達は増えていく。

大輔と私はいつの間にか友達になり、親友になっていた。

私たちが5歳のころにファミコンが発売され、12歳の時にスーパーファミコンが発売された。

家庭用ゲーム機の成長とともに私たちも成長していく。

私たちは毎日のようにテレビゲームをして遊んだ。

笑い、戦い、共闘し、考え、悔しがり、飽きもせず夢中でゲームをしていた。

あの時が永遠に続いても、きっと楽しめただろう。そう思えた時期だ。

私たちは小学校と中学校は一緒だが、高校は別々だった。

大輔とは高校時代はあまり遊んでいなかった。

大輔は真っ当な青春時代に突入し、私は相も変わらずゲームをしていたからだ。

大輔とはあまり会うこともなかったが、距離が出来たとは不思議と思ったことはなかった。

そんな高校時代が終わると、私は高専に編入し、二年間、地元から出ることになった。

しかし、長期休みに帰ってくると、私たちは毎日のように遊んだ。住む距離が空いた高専時代の方が、高校時代より遊んでいたと思う。
 
少し大人になった私たちはゲームで遊ぶだけでなく、カラオケで歌ったり、ファミレスで深夜まで語り合ったりしていた。

私たちは就職氷河期世代になる。ただ私も大輔も頭のネジの種類が違うのか、その当時に就職活動をしたことがなく、就職氷河期の苦労話は一切できない。

私は作家を目指し、大輔はBARを経営しマスターになった。
私たちはもう一人の友達を誘い、三人で一緒に住んだ。今でいうルームシェアである。

面白いことに一緒に住むと、また大輔とは遊ぶことが減っていた。私と大輔は、お互いの人生が見えていればそれで満足なのだ。その三人暮らしは私が、もう一人の友達と喧嘩をして終わりを迎えた。

二人でたこ焼き屋をやりながら旅をしたこともある。適当な場所に車を止めて、大輔はたこ焼きを焼き、私は近くの家に訪問販売をするというもので、儲かりはしなかったが、旅費ぐらいは稼げた。

そうこうしているうちに、私は上京をし、夢を追いかけた。もう三十歳になっている。大輔は結婚をして、子供を授かり、安定のためにサラリーマンになった。

そして十年が経ち、大輔は子宝に恵まれ、四児の父になった。私と言えば夢につまずき、転び、うずくまっていた。そうして私は地元に戻ってきた。

そんな時に「一緒に動画を創らないか?」と大輔に声を掛けられた。
私は創作活動に疲れ、やや嫌気がさしていたが、大輔の提案したアイデアは魅力的なものだった。

「ユーチューブでストーリーを選べる動画を創ったら面白いと思わないか?」と大輔は言った。私は面白いと思った。

スーパー銭湯で二人、動画を創ろうと約束したのだ。

私たちは動画を創るにあたって乗り越えなければいけないことがいくつもあった。

私は原作が書ける。大輔は動画編集が出来る。そして二人とも絵心がない。

そんな二人で試行錯誤をして、一年が経ち、この動画が出来上がる。私から言わせていただくと、この動画が出来たのはほとんど大輔の力である。さすがBARを手作りで完成させた方だ。根気と根性が私とは違う。

しかし、この動画が出来た本当の理由は私が弱っていたからに他ならない。

私がうずくまって動けずにいたのを見かねて、大輔が手を差し伸べてくれたのだ。

私がまた創作活動を出来るように手助けをしてくれた。

この動画が出来た根本はそこにある。私は良い友人を持ったと思う。

大輔とその家族に私はお礼を言いたい。本当にありがとう。

この感謝の言葉を添えて、私たちの動画を公開したい。







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