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豊臣家の滅亡について「思うところ」

今回の「思うところ」は豊臣家滅亡を取り上げたいと思う。なぜ、このテーマを取り上げたいのか。人間人生楽しく生きる上で大事なこと。それは自分の考えたことが順調に進んでいる時間。このような時間があるから、どんな苦しいことがあっても人間は頑張れるし、「未来を今より明るいものにしよう」「努力しよう」と思う。
しかし、ふとしたことから、順調に言っていた仕組みが崩れ、崩壊に向かう。順調が維持できるときと、崩壊に向かう時。その転機というのはどのような形で現れるのか。探ってみたい。

まず、秀吉の人生を簡潔にまとめてみた。
豊臣秀吉は農民出身であった。武家に奉公し徐々に出世していき、城持大名となった。京都朝廷や将軍家と織田家の折衝役も務めている。上杉戦で柴田勝家への援軍として参加し、柴田と軍略でもめて戦線離脱。信長の勘気に触れて蟄居を命じられる。その後、柴田が上杉謙信に手取川の戦いで大敗したため、秀吉は蟄居を解かれ毛利戦の司令官となった。
大軍を手にした秀吉は毛利の将である清水宗治と備中高松城で戦をする。そこに本能寺の変の急報が届いた。

「信長死去」

信長という存在がなくなったその瞬間は、織田家の武将たちにとって「人生最大のチャンス」と「人生最大の危機」どちらでもあった。
甲斐を納めていた河尻秀隆は軍が解体し、反乱が抑えられず討ち死に。滝川一政は軍が崩壊し、命からがら領国の伊勢へ逃げ帰った。関東方面の司令官であったにもかかわらず、その後の織田家では表舞台から消えた。
柴田勝家は上杉謙信を前に身動きが取れず、主君の敵討ちを遂げることができなかった。秀吉との駆け引きに後れを取り、雌雄を決する賤ケ岳の戦いで敗れ、滅亡に至った。
秀吉の場合は、彼に人柄・才能も加え、羽柴軍全員が一丸となって危機をチャンスに変えた。
史上に名高い「中国大返し」だ。
明智光秀を討つことに成功した秀吉は、織田家の主導権を握り、清須会議を経てそのポジションを固めていく。筆頭家老でありお市の方を娶り織田家一門となっていた柴田勝家、そして織田信孝を滅ぼす。最後に織田信雄を降伏させ、後、東海の徳川家を上洛させることに成功する。朝廷から官位を授かることで、織田家を完全に掌握した。
その後、九州・関東、東北を平らげ日本を平定する。さらに、朝鮮へ出兵し、その最中に死去した。
以上が秀吉の人生である。

次に秀吉死去後を簡潔にまとめてみる。
秀吉死去後、五大老と五奉行が政治を執り行っていく。秀頼の後見人に前田利家が付き、徳川家康が秀吉に代わって京都の伏見城に在城した。石田三成は豊臣家内の武将をまとめきれず、五奉行の職を辞任させられ、佐和山城へ蟄居する。五大老の前田利家が死去すると、家康は同じく五大老である上杉景勝に謀反の罪を着せ、討伐に向かった。

その後、石田三成の蜂起。
徳川家康は引き返し、関ケ原の戦いで石田三成を討つ。その後、徳川家康は征夷大将軍に任命され、新たな日本の支配者となった。豊臣家に大坂城を出ることを命じるも拒否される。方広寺の鐘に刻まれた「国家安康、君臣豊楽」を家康を切り国を安らかにし、豊臣を君とし子孫繁栄を楽しむ。と解釈して大坂の陣の火ぶたを切った。
二度の戦いの末、豊臣家は滅亡する。

以上、秀吉の人生と豊臣家の没落を簡潔にまとめた。
豊臣家が順調から崩壊に向かう時はどのような出来事が起こっていたのであろうか。歴史のいいところはどのような事実も、既に結果が現れているので、よかった部分、悪かった部分を考察できるところだ。

次ん、豊臣家滅亡の原因を挙げてみたいと思う。
1, 秀吉が、すでに関白に就任していた豊臣秀次を切腹させ、まだ幼い豊臣秀頼を後継者としたこと。
2,  朝鮮半島出陣で豊臣家の加藤清正や黒田長政、福島正紀などの武官派と兵糧や武器弾薬などの輸送を担当した文官派で亀裂が生じていたこと。
3,  淀殿を中心とする近江派と北政所を中心とする尾張派閥があったこと。
4,  秀吉が豊臣政権を運営していくうえで、室町幕府の仕組みを踏襲し、五大老などの石高を多く持つ大名を参画させていたこと。
5, 秀吉が信長の政策を踏襲し、金山・銀山からの収入を重視しすぎて、不要人にも大名に石高を多く持たせていたこと。
6, 朝鮮出兵で日本国内は疲弊し、豊臣政権が朝鮮出兵に参加した大名から支持を失っていたこと。
7, 秀吉は生前、よほど自分の天下に自信があったのか、大阪城の落とし方を諸大名の前で披露した。家康はそれを覚えており、まず、停戦して堀を埋めてから2度目の戦で大阪城を落とした。

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