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【かんがえること】 第3回 曽我大穂の語ることについて考えること 

廣木響平の考えること


誰もが毎日の仕事や学校、まどろっこしい人間関係、その他多くのしがらみやストレスから解き放たれ、一人で失踪したくなることがある(と思う)。

一人にしてもらいときは本当に放っておいてほしいけれど、寂しがり屋で仲間といたい時はいたい。学校みたいな上下関係のある場が大嫌いで、大事な時の前は勢いつけるために飲酒。たまにリハーサルで満足して本番前に帰ろうとしたり(これは山口富士夫のエピソードでもあるけれど)することは誰もがある(はずだ!)。

アートとはそれを創り出す人そのものの現れであり、逆にそうではない、空虚な形式だけのものならば、そんなものは見てもちっとも面白くない。そういう人間っぽさとか、裸具合というか、アートとはその人の素の(しかし天才の)魂の表出を見るものだと考える。
であるからして、音楽家の奏でる音を聴いて、その奏でた本人の人柄や考え方を聞けるのは答え合わせのようで面白い体験になる。

曽我さんはこの日(正確には前日のリハ)に話をするまで当然ながら一言も話をしたことは無かったが、その音楽を生で聴いて、非常に信用に足る人物であるし、勝手ながら極めて似た思考を持つ人だと感じた。

失踪を推奨し、失踪のための音楽をも奏でるし、それ用の鞄まで自分で作成している(私もその後購入した)。でももし私が失踪するときは連絡をくれと言う。それでは失踪にならないじゃないか?と言うと「お、あいつ、ついに失踪したんだな、とうとうか…、よし、俺も」となるそうな。そういうところが信用できる。

さて、延々と楽器を弾き続けていると神様が降りてくる時があると曽我さんは言う。NEW ORDERのボーカル、バーナード・サムナー氏(*1)も曲ができる時は神様が降りて来ると自伝で話している。そういう瞬間は3分間のポップソングには収めることはかろうじてできるが、通常5年以上かけて創る図書館づくりにおいて、その神様が降りてきた瞬間を5年間常に持続し、神様とやり続けることは神様以上の至難の技ではないかと思うが、そういうことが実現出来たらめちゃくちゃ良くないですかね?

*1
学生のコピーバンドよりも演奏が下手くそながらも、美しくも一部の人の心をえぐる楽曲を奏でるマンチェスターのバンド。バーナード・サムナーは前のボーカルが自殺したため繰り上がってボーカルになった。


染谷拓郎の考えること

曽我さんと会話すると、自分のなかで価値観が随分カチカチに凝り固まっていたんだなと感じることがある。ルールそれ自体を大きく変えることは難しくても、消しゴムを使ってその境界線をじわじわとぼかすことはいつだってできるはずなのだ。

ルールだから。ではなく、ルールだけどいまはこっちの方がいいよね。の方が、自然だし気持ちがいい。良い場所の定義はいくつかあるが、その場にいる人たちが心地よく過ごせるように配慮しあう、というのは大きなポイントだと感じる。

曽我さんが今まで取り組んできた様々なプロジェクトは、大枠としての新しいルールと、その場で出てきた課題をやわらかくいなす即興性の2面からできている。

だとしたら、図書館そのものをどう考え直すか。その場所で生まれるアクションをどう現場で良いものにしていくか。それがポイントになってきそうだ。

曽我 
人の前でパフォーマンスをするということは、実は社会と密接につながっているんですよ。料金はどう設定し、どんなお客さんに来てほしくて、どんな接客をするのか。その背景には社会のいろんなルールがあり、だからこそ社会への提案を入れる余地がある。お客さんにあえて説明はしなくても、「社会はもっとこうあってほしい」という思いを匂わせることはできるんです。

音楽家は音のことだけ考えていればいい、という雰囲気もありますが、音楽家が出す音自体、社会の仕組みの中から生まれているものだし、社会のルールを日々浴びている人たちがお客さんとして来てくれるわけです。決して無視できない、セットなんですよね。

僕たちも、社会のなかで図書館や文化施設を機能させていきたい。曽我さんとは1年に一度くらいお会いできると、自分の固いところと柔らかいところを確かめるリトマス試験紙になりそうだ。