【井上小百合舞台レポ】笑いとシリアス、余韻と感動。もの凄い地力の力業~愛のレキシアター「ざ・びぎにんぐ・おぶ・らぶ」
ふいに気づいたら泣いている、豪華絢爛で奇想天外な再生の物語
2019年3月に赤坂ACTシアターで行われた『愛のレキシアター』。2回観劇してのレポートである。
レキシの名曲を元にしたミュージカル。
どれほど伝わるかはわからないが、一応あらすじを書くと以下の通り。
主人公の織田こきん(山本耕史)は35歳のニートで引きこもり。母親・胡蝶(高田聖子)とのふたり暮らし。
家に訪ねてくるのは引きこもりサポートネットの明智(藤井隆)ぐらい。実は胡蝶と明智は学生時代、恋人だった。
こきんは歴女ブロガー、カオリコ(松岡茉優)に夢中。彼女に気に入られようと「ヨシツネ」というハンドルネームを使い偽のプロフィールをでっち上げる。
そんなこきんたち3人、そしてカオリコは歴史のテーマパーク、夢の国レキシーランドへと招かれる。
彼らを迎えるのは総支配人ウォルト・レキシー(八嶋智人)やくノ一さん(井上小百合)、腰元さん(浦島りんこ)、代役侍(前田悟)といったキャストたち。
さらにそこには失踪したこきんの父親・将軍(山本亨)となぜか実体化したヨシツネ(佐藤流司)の姿もあった。
ヨシツネに一目ぼれするカオリコ。将軍との過去の因縁から暴走する明智。こきんを亡き者にして自分が実体になろうと企むヨシツネ。
不穏な空気が漂う中、突如発生したクーデターにより殺害されるレキシー。
混乱を極めるレキシーランドの真ん中でカオリコが叫ぶ。
「あなたは…武士!」
愛する人の言葉を背に、ひとりの男が立ち上がる。
過去を過去にするために。
そして大団円。
たどり着いたのは弥生時代。
隣にいる誰かを幸せにするために、家を建て家族を作るという営み。
それが、愛の始まり。
名曲『狩りから稲作へ』が人間賛歌として高らかに鳴り響く中、会場全体がひとつになって振る稲穂。
もう思い出すだけで最高なのだが…観ていない方にはさっぱりであろう。
一言でいえば、再生の物語。
でもそんな難しく考える必要は一切なく、基本ずっと笑っていて、クライマックスはシリアスで、最後に余韻があって、なんだかわけもわからず涙が出そうになる。
私は元々チャップリンが大好きなので、こういうのに弱いのだ。
とてつもなく面白かった。
レキシの曲で舞台作ろうにも「そもそも扱ってる時代がばらばら」という根本的な問題をテーマパークのアトラクションにして一挙解決という発想がまず素晴らしい。
そして楽曲のクオリティが高すぎる。観た人はみんなレキシの曲が好きになったことだろう。お金を湯水のように使ったレキシのプロモーションなんじゃないかと本気で思うくらいである。
豪華絢爛キャスト、しかも全員芸達者な皆さんが演技して歌って踊って殺陣もやる。アドリブもバリバリで、なんなら井上の悩み相談だって聞いてくれる。(毎日彼女のガチの悩みに八嶋が答えるコーナーがあった)
キャストも音楽も脚本もその他諸々も、全てがもの凄い地力。
そんなモンスターたちに囲まれて井上小百合はどう戦ったのであろうか。
(2019年07月11日)
強くない井上小百合という新境地
井上は苦悩していた。
稽古中には「毎日自分のできなさにため息が止まらない」と言っていたこともある。
彼女が演じたくノ一さんはメインキャストではなかった。
今まで井上が演じてきたのはほとんどヒロインかヒロイン対抗。それに比べれば出番も台詞も、そして物語への関与度合いも少ない。
しかも初めて演じる「凡人」。
恐らく、だからこそ難しかったのだろう。
彼女が多く演じてきたのは、強烈な信念と一種のクレイジーさを持つ役。
『帝一の國』美美子、『すべての犬は天国へ行く』エルザ、『墓場、女子高生』西川、『夜曲』サヨ、『若様組まいる』志奈子、『じょしらく』木胡桃&魔梨威、『あさひなぐ』将子、そしてもちろん『セーラームーン』の月野うさぎも。
一見か弱く見えるキャラクターがここぞの場面で見せる凄味。
これまで井上は見事にそれを表現してきた。得意中の得意、と言っていいかもしれない。
しかし今回のくノ一さんはちょっと違った。
強烈な信念や行動原理、言い換えればモチベーションがないのである。
人生を変えようとする確固たる目的意識を持った周囲のクレイジーな人々に翻弄されながらも、職業倫理と仲間への愛着だけを武器に懸命に自分の役割を果たそうとする常識人。
そんな当たり前の人間=凡人が、人生賭けちゃってるクレイジーな連中に太刀打ちできるはずもない。「レキシーランドきっての手練れ」と評されていたくノ一さんだが、ヨシツネの前になす術もなく敗れ去る。
強くない役。それを井上が演じることはすごく新鮮だった。
凡人にだってプライドがあるんだ
彼女自身、自分のことを「努力しか手札がない」と評している。
そんな凡人の自分が舞台の上で凡人を演じる。ましてや凡人であるゆえに敗れ去る役なのだ。
それはこれまでに経験したことのない苦しみだったことだろう。
そして彼女がたどり着いたのは、凡人の悲哀と矜持が共存した演技。
自らの命運を、選ばれし「強き者」に委ねるしかない市井の人々。
悔しくて情けなくてちょっぴり諦観もあって、でもやっぱり意地がある。
自分の無力さに打ちのめされながらも、最後までひたむきに抗う姿。
凡人にだって人生があり、プライドがあるということを、ほんの少しだけ観る者に想像させる表現。
そんな「非凡な凡人」こそが井上の出した答えだった。
凡人をどう演じるか。
この先、井上小百合が舞台に立ち続けるのであれば必ず必要となるであろうスキル。
そのひとつの答えを見出した『愛のレキシアター』は、彼女にとってとても意味のある経験だったのではないだろうか。
稲穂を振りながらつらつらとそんなことを考えた、春の午後だった。
(2019年07月14日)
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