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「WHY(何のために)」のその先を考えてみる

先日の夜、遠方からの知人に会いにcafe causaに行った際、話の流れで遠矢さんから、ある問いが発せられた。
正解なんてないんだから正解ありきで話をしてもしょうがないし、なんならこれからの時代で求められるのは、何のためにっていうことですらなく、スタンスみたいなものが求められるのでは?っていう感じ。うろ覚えだけど。
その瞬間、なるほどって感じで、言わんとするニュアンスは分かったものの、深くは考えなかったので、改めて考えてみた。
今回はそのことについて書くことに。
ただ、今回でまとめあげるつもりはない。
あくまでも考えてみた途中経過みたいなものを整理する感じ。

前提として、藤原和博さんが「たった一度の人生を変える勉強をしよう」と題した講演や著書でも触れているように、1998年以降はそれまでの情報処理能力(正解を当てる力)重視の社会から情報編集力(納得解をつくる力)重視の社会へと変化している。
そして、サイモン・シネックさんが提唱する「ゴールデン・サークル理論」のようにWHYからはじめようって話もあったりする。僕もよく講義等のシーンで使わせてもらっているし、それとは違う文脈としても、やはり常に「何のために」ってことは考えた方がいいし、困った時はそこに立ち返ることが大切って類のことを話している。

なので、基本「WHY(何のために・目的)」っていうのは大事だと思っている。

だから、それ以上にスタンスがって言われたとしても、WHYの重要性は変わらないとは思っている。
ただ、それだけではダメなんだろうなっていうことにも気づくことができた。
捉えようによっては、WHYを設定することは、仮説のようなものであり、それは自分で設定した正解みたいな存在とも言えなくはない。

納得解をつくるっていう意味で周囲の共感を得ることを考えた際、人は設定されたWHY自体に共感するのだろうか?
それより、それを設定した人が、そこに向かってどのようにアプローチしているのか?どのようなスタンスで向き合っているのか?どんな思いでそれを設定したのか?などを通して、実際のその人の生き様に触れることで実際は共感するのではないかと思う。
設定したWHYの存在だけでは足りないし、そこに向けた戦略が示されるだけでもだめだし、そこに向けた具体的アクションという実際に発動しているプロセスがない限りは、それはあくまでも絵に描いた餅ということになってしまう。
志を持つのはすごく大切だけど、結局それが志と認識されるのは、行動が伴ってこそっていう感覚と似ていると思ってる。

あと触れたかったのが、求めるのか願うのか、追い続ける姿勢、結果とプロセス、自然とにじみでる感じ、等々。

時間切れなので、今回はここまで。
続きは、またどこかの機会で。

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