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認識の枠組

今日1限は福岡女子大学の和栗先生による1年生向けリフレクション講座(今年度2回目)がおこなわれた。

1学期に実施された際の復習的な内容も多かったなかで、今回印象に残ったのが「認識の枠組」のおはなし。
リフレクションの際にポイントとなるのは、何が自分の行為を規定しているのか?っていう部分にフォーカスすること。
つまり、自分自身の行動や思考の「前提」に迫っていくこと、さらに、リフレクションによって、その箱から外に出てみることが大切っていうことだった。

まずは前提に迫るっていうことで、最初に紹介された、コルトハーヘンの氷山モデルでは、そのプロセスを水面上にある見えやすいものから水面下にある見えにくいものへと徐々に深掘りするようなイメージが、氷山になぞらえてイラスト化されていた。
水面上には「行動(action)」があり、そこから水面化に「思考(thinking)」→「感情(feeling)」→「望み(wanting)/恐れ(fear)」というふうに徐々に深くなるイメージ。
つまり、リフレクションをおこなう際、行動に着目するのは表面的すぎるし、その際の思考に着目してもまだ浅いため、一番根底にある望みの部分まで深掘りして言語化する必要があるってこと。
それがその人の言動の根底にある価値観・規範・前提であり、それが何なのかが認識できないと意味のあるリフレクションにはならないってことだと僕は受け取った。

そのうえで、エリスのABCDE理論を用いて、自分自身の行為を規定している箱から外にでてみるという具体的なリフレクションの方法が示された。
詳細は省略するけど、起こった出来事をどう捉えたのか?その時の感情等はどんなものだったのか?っていう自己分析をしたうえで、その捉え方の部分に異議を唱えたとしたら、結果はどう変わる?みたいなことだった。
つまり、自分自身の根底にある価値観まで深掘りしたうえで、その手前にある捉え方の部分を違う捉え方に置き換えて見た場合、その先にはどんな価値観がみえてくるか?っていうのを考えることで様々な可能性に目が向けられるようになるってことだと思った。それと同時に、捉え方を変えることで起こると想定される違った結果に対してどのような感情を抱くのか?それによっては、元々持っていた価値観が揺さぶられたり広がったり研ぎ澄まされたり、いろんな効果が期待されるんだろう。そんなふうに思った。

こっちの部分はじっくり聴けなかったこともあり、きっちり理解できているかどうか分からないけど、客観視して異論を唱えてみるっていう思考プロセスについては、たしかに大切だなって思った。おそらく批判的読書とかにも通じる部分がありそうだ。

そういえば、先日の面談で、コミュニケーションを取る際にどんなことを意識しているか尋ねられた際、相手が何を前提にして話しているのか?そこを意識しているって答えていた。

実はこのことを強く意識し始めたキッカケが、5-6年前に受けた和栗先生の講義。それ以降は自分自身の講義でも前提の重要性について色んな場面で触れている気がする。
同じ言葉でも受け取る側が何を前提としているかで、その捉え方が違ってくる。極端にいうと、こちらは良かれと思った言葉でも、相手は悪意と受け取る場合があるって感じで。
相手との関係性がある程度できている場合はなんとなくその前提のようなものが理解できているけど、そうでない場合は、それが何なのかを慎重に見極めながらやりとりをするし、必要に応じてストレートに聞く場合もあったりする。

とまあ、こんな感じだけど、そう考えていくと、1つモヤっとしたことが。
今日の話のポイントが認識の枠組からの解放だったとすると、自分自身が学生たちに大切な考え方だといって日頃伝えていることって、見方によっては認識の枠組をはめこんでいることにならないのか?
一方的だとそうなるけど双方向なら大丈夫?
伝え方によって違ってくることなのかな?
いずれにせよ、僕自身が自分自身の認識の枠組みの存在を常に意識して、そこに捉われ過ぎていないかどうか?セルフチェックをおこなうのが大切なんだろうな。

ということで、今回も最後まで読んでくださり、ありがとうございました!


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