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誰も望まない結果を生むことが多い行為

今回は、いつの時代もそうなんだな。身近なとこから広い世界までそうなんだな。って考えたことについて。

それは「煽る行為」の結末。

きっかけはCOTEN RADIOのとあるコンテンツ。
もちろん、その行為だけが主たる原因というわけではないものの、誰もが望まない結果に至ってしまったという歴史的な出来事のプロセスにおいて、その行為がかなり影響したという側面もあるってことを知り、考えることに。
(ほかにもたくさん考えたい部分はあったけど、今回はあえて1つに絞った)

それまでになかった概念や捉え方を浸透させたり、ある一つの方向に世論を導こうとしたりと、色々なケースがありそうだけど、それによって、それぞれの人間が保っている絶妙な心のバランス(白も黒も混在しているけど、どちらかに偏りすぎることなく、両者が牽制しあってる状態?)が変に刺激されて、振り返ってみると決して本意ではない方向へと進んでいってしまうという、なんともやるせない気持ちになる出来事から何を学ぶべきかっ0ていうふうに僕は受け取った。

それに対しては、煽りから生まれる結果にろくなことはない。
煽りは軽くスルーできるくらいの冷静なメンタルが必要。
悪気はなくても煽るのは避けたいところ。
あたりかな。

その一方で、思い出したことがある。
多分小学生のころのこと。
班ごとに机を寄せ合って何かしているとき、僕の発言に対して、お調子者の友人Aが、もう一人の友人Bを煽ったことで、その友人Bが暴れ出して、とんでもない迷惑をくらうっていうことがあった。
(Aによる煽りがなくてもそうなっていた可能性はゼロではないけど。)
で、僕らの班は公開説教的なのをくらう羽目に。。
側からみても暴れ出したBが悪いようにみえるものの、その原因をつくった僕も悪いみたいな感じになり、結果、両成敗的な裁定となった。
けど、その裁定に対して全く納得がいかなかったことを覚えている。
僕の中では、そもそもAがBを煽るような余計なことを言わなければ、Bもそんな行動にはでなかったし、大して気にしていなかったはずだと思っていたからだ。だから、Aに対して、ろくなもんじゃないなって思っていた。
その後も色んな場面でそういうシーンをみかけることもあったので、そのたびに、無責任な第三者の煽りってほんとによくないなって思っていた。

冒頭のコンテンツで触れられていたことも、まさにそれに近いことだと思ったので、いろんな意味で歴史に学べることは多いなって考えた次第。

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